自宅駐車場に着いてエンジンを止めた。 まだ彼を説得出来たわけじゃないが気持ちが揺らいだのは垣間見れたしまだ時間はある。 ただ、彼の初めてのキスとは知らず、、、申し訳ない気持ちもあるけど。 後部座席から荷物を取って車内から出ようとドアの取手に手をかけた瞬間スマホが鳴った。 　「…もしもし」 　「今どこだ？すぐ銀座に来れるか？」 　「は？家だけど、、急に何？」 　 　嫌いな兄の呼び出しにに清々しい気持ちも一瞬てなくなる。電話の背後から女性のヒステリックな声が途切れ途切れに聴こえる。何となく只事(ただごと)ではない事が起きているのは分かるが兄はいたって冷静だ。 　「、、、何か騒がしいけど」 　「大した事じゃないが収拾つかなくてな、時間あるなら来てくれないか。以前お前も担当した患者だ」 　この仕事に就いてそこそこの年数も経った、一応察しがつくが気になったのは最後の言葉。仕方なくシートベルトを締め直して病院へ向かった。皮肉なものでこんな気が乗らない時に限って道路がスムーズで思いの外早く到着しそうだ。 　銀座院に着くと受付まで聞こえると声に待ち合い室の患者達も何事かと奥の部屋を覗いている。 　「あっ、先生！お疲れ様です、、」 　「兄に呼ばれて来たんですけど」 　受付の看護師がこちらですと奥の部屋まで足早に付いていく。部屋が近くたびだんだん中の会話の声が大きくなっていった。 　奥の部屋は会議室のようなただ長机と椅子だけがある質素な部屋。椅子に座る兄と隣にもう一人の若い医師、そして40代の母親と娘らしき親子が対面で重い空気の中見合っていた。 　「だからどう責任取るつもりなんですか！」 　「でしたら裁判でもなんでも好きになさって下さい。こちらはあなたの娘さんときちんと話合ってリスクの説明をして了解得た上で手術を行いました」 　いわゆる施術トラブルやクレームだ。珍しい事じゃないが声を荒げる母親の横で右目に眼帯をした娘の方には見覚えがあった。 　まだ僕が銀座院にいた時、一度カウセリングをした女の子だった。その時18歳で未成年だった事で親の承諾が必要だった。結局、親に反対されて手術は受けれずそれ以来来院する事はなかった。 それから二年経って彼女は20歳になっていた。 　「何があったんですか？」 僕は隣で不安げに様子を見守る看護師の耳元で言った。 　「えっと……」 　聞けばいきなり以前、目の二重手術を受けた娘の母親が怒鳴り込んできたと言う。二ヶ月前に手術を受けてしばらくして目の腫れがなかなか引かず病院に連絡した。だけど取り合って貰えず、日に日に酷くなり母親が異変に気づいて問いただすと彼女は整形を打ち明けたと言う。 　「そちらが手術するだけしてケアもなしでほったらかしにするから娘の目は悪くなったんです！」 　「もし失明でもしたらどうするんですか！」 　「ありもしない推測するのは辞めてもらっていいですか？」 　「眼科にだって行って検査したんです！！」 　兄は慣れたように淡々と母親の言葉に返答していた。母親の手元には眼科の診断書らしきものがあって、バンバンと机を叩く。ヒートアップする母親の横で俯いたままの娘はただ黙っていた。 　「とりあえずこのままじゃ拉致があかないので弁護士通して話しましょう」 　「そうやって逃げて責任追わないつもりでしょ！！」 　「お母さんまずは娘さんとよく話して下さい。結局は大事(おおごと)にすれば辛い思いするのは娘さんなわけけですから」 　「お母様だけではなく娘さんの意見も聞きたいですね」 　兄の隣にいた若い医師が言った。おそらく執刀医は彼だろう。20代半ばくらいの研修終えたばかりといったところだろうか。 　「……私は……」 　今にも泣き出しそうな彼女は小さく何か言いたげだった、、、が母親に遮られてしまう。 　「もういいです！！今日のところは帰りますけどこれで終わりじゃないですから！」 　そう言って立ち上がった母親は娘の手を強く引いて大股で部屋を出て行く。 僕の目の前を通り過ぎた瞬間、顔を上げた彼女と目が合った。二年前より少し大人になったように見えたが、まだ若い彼女には耐えられない空間だっただろう。 　台風が去ったような部屋に残された兄は若い医師の方に手を置いて励ましているように見えた。それからこちらに来て僕にペコリと頭を下げるとにっこり笑って部屋を出ていった。 若い医師にダメージを食らった様子はなかった。 　「廉、来たか。こっち来いよ」 そのまま院長室に連れて行かれ、部屋に入ると兄は白衣を脱いでハンガーに掛けた。 　「はぁ。ああゆうの相手にするとどっと疲れる」 大きくため息をついた兄はエナジードリンクをグイッと飲んで首の凝りをほぐすようにゆっくり回した。 　「何だよあれ。何で呼ばれたわけ？」 　「娘の方、知ってる子だったろ？」 　「知ってるって一度カウセリングしただけの子だよ……ってか大丈夫？あんな風に言って」 　「母親も喚(わめ)いて診断書でも見せりゃ慰謝料でも踏んだくれると思ったんだろ？」 　「だからってもう少しいい方あると思うけど。実際目の腫れはあったし処置する必要はあった」 　「診ないとは言ってない。だけど一人一人の全員に時間を割(さ)いて意見を聞いて全て受け入れるなんて無理な話だ。患者はどんだけいると思ってるんだ？」 　「だけど僕らはそれだけの責任ある事をやってる」 　「まったく相変わらず緩いな、お前は。情に流されやすいお前みたいなのは一番カモになりやすい。赤坂でもし何か起きたらその責任追う立場なのわかってるか？」 　父親にも以前同じような事を言われた事がある。＂この仕事は綺麗だけでは務まらない、多少の冷酷さがないと出来ない＂と。 　「患者が悩みを抱えた可哀想な子羊だなんて思うな、痛い目みるぞ」 　顔を近づけてそう言った兄が手渡して来たのは弁護士事務所の名前が書いた名刺。 　「廉、赤阪でトラブルあればこの弁護士に連絡するといい相談のってくれる。お前が言う責任ある仕事なら必要不可欠だろ？」 　「いらない」 　冷たい目で兄を睨んで部屋を出ていった。幻想だと言われても僕はこの業界は綺麗な夢の世界だと信じてる。 　でなければ高校時代、天国へ行った＂あいつ＂に顔向け出来ないから―― 　＂医師と患者ではなく、まずは対人間として向き合わなければ本質は改善しない＂ 　祖父がまだ幼かった僕に言った言葉、今でもよく覚えている。 　病院にとって患者はお客様で、患者にとって医師は神様で。では医師にとって患者とは？ 　車の中でそんな事を頭の中でぐるぐるとループしながら考えていた。自分がなりたかった医師って何だろう。 　そして無性に彼に会いたくなった。別れてそんなに時間経ってないのに、何してるかな？とかもう授業終わったかな？とか。 　とりあえず夜になったら電話してみようかな。