翌日、翔は予定していたマンツーマンのダンスレッスンを休んだ。正確には、理由を説明して日時を変更してもらったのだ。 　実家に大切な用がある、というのは決して嘘をついているわけではない。 　翔は高速道路の表示を横目で見ながら、いまだにスッキリしない自身の感情について考えていた。 　聖が歌っていた時のことは思い出したのに……それからどうしたのか、全く記憶にないんだよな。 　よほどショックが強かったのかとも思うのだが、どうにも別の理由があるような気がして仕方がない。 　実家に一番近いインターで下りると、一般道で渋滞にハマってしまう。 　早く真実を知りたい気持ちと、どこかでそれを恐れる自分。 　このまま進まずに済めばいいのにという思いと、一刻も早く目的地に辿り着きたい焦燥感。 　さまざまな感情がごちゃまぜになり、翔は混乱していた。 　窓の外の景色がだんだんと見慣れたものに変わってゆく。 　 　実家に着くと、母親が出迎えてくれた。 「電話で言っとったビデオ、見つけといたよ」 　出された麦茶を飲み干すと、翔は母親が点けたテレビをなんとなしに眺めた。 「でもデッキあらへんから、ここでは見れんねぇ」 「じゃあ借りてくよ。向こうならなんとかなると思うし」 　翔の言葉に、母親は軽く眉をひそめた。 「でも、あの頃の話はしたがらんかったのにね」 「まぁ、俺もオトナになったってことかな」 　おどけてカッコつけると、母親はケラケラと笑う。 「本当は辞めるって言われた時、ちょっともったいないなとは思ったんよ」 　また歌えるようになって良かったね、と言う母親は本当に嬉しそうだ。 「その割には抜けるのあっさり認めたよね」 　翔の言葉に、先程までにこにこしていた母親の顔が曇った。 「あんたは知らんかったと思うけど、あの通ってた歌の先生な、変な噂があって」 　母親の話は確かに初耳だった。それは、ボイトレの先生が生徒に手を出していたという噂である。 「ウチは男だし、って安心しとったけど、そういうもんでもないって聞いて怖くなったところに辞めるって言われたから」 　翔自身は、特に過剰なスキンシップをされた記憶はなかった。 　他の生徒と同時にレッスンを受けたこともないので、比較はできなかったが。 「俺ん時は別に何もなかったけどなぁ」 「あんたは天然ボケやから心配やったんよ」 　母親はまたケラケラと笑い、部屋を出て行く。 「夕飯食べてくやろ？　買い物行ってくるわ」 　それを見送ると、翔はソファーに寝そべった。 　たった今聞いたばかりの言葉の断片が、頭の中をぐるぐると飛び交っている。 　あの先生……聖も教えてたんだよな。 　その事実に行き当たり、翔はソファーから跳ね起きた。 　それって、ヤバくね？ 　あのガサガサな映像ですら隠しきれない、聖の愛らしさ。 　当時、目の前で見て天使のようだと思った自分。 　サーッと血の気が引く感覚がして、翔は目の前が真っ暗になった気がした。 　そうだ、あのコンクールの日、俺は。 　あの綺麗な歌声の持ち主にどうしても話しかけたくて、幼い翔はバックステージを駆けていたのだ。 　いろんな人に尋ねまわって、ようやく探し当てた楽屋。 　いざノックをしようとした途端、急にそれまでの高揚感が萎んで、緊張から廊下に立ち尽くした自分。 　そして、聞いてしまったのだ。 　翔は我に返ると、とりあえずその場で歩き回ってみた。 　急激に思い出された記憶に、思考が追いつかない。 　 　こんなこと、一体誰に相談すりゃいいんだよ！？ 　混乱する頭の中で、ふと、とある人物の顔が浮かんだ。 　その人は、翔が最も尊敬し、信頼を寄せている人だった。 　いざという時には絶対に力になってくれる、頼れる先輩。 　翔はテーブルの上にあった車のキーを手に取ると、慌てて家を飛び出した。 　心の中で、食材を無駄にしてしまうであろう母親に平謝りしながら。