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第2部 9話
その日、翔はバイトが終わるとスタジオには行かず別の場所に向かった。
着いたのは『DILEMMA』の事務所だ。こちらは原宿ではなく、表参道のオフィスビルの中にある。
実家から慌てて戻ったあの日、翔は貴久に連絡をした。
海外に出張中だが明後日戻ると言われ、今日まで待っていたのだ。
日を開けたおかげでいくぶん落ち着いたとはいえ、まだ記憶の混乱は続いている。
明日からはいよいよニューアルバムのヴォーカル録りが始まる予定だ。
できれば、それまでに気持ちの整理をつけておきたかった。
また、実家から持ち帰ったビデオは友人に預けてデータ化してもらってあった。
翔はパソコンを所持していない為、それも貴久のところで観せてもらうことになっていた。
*****
センスの良い調度品が、さりげなく配置された応接室。
そこには、ゆったりとしたソファーに深く腰掛け、長い足を組んだ貴久がいた。
翔の話をひと通り聞いた彼は、ちいさくため息をつく。
「わかっている情報だけでアドバイスするなら、素人は首を突っ込まない方が良い案件なんだろうけど」
貴久は、綺麗に整った眉をほんの少し歪めた。
「まぁ、そんなことは承知の上で相談しに来たんだよね」
翔はその言葉に頷くと、じっと彼の目を見る。
「子どもの頃の記憶なんで、本当に起きた出来事なのかと言われると自信がないんですけど」
あの日――コンクールで聖の歌声を聴いたあと。
彼に話しかけたい一心で訪ねた楽屋で、知ってしまった秘密。
「今、その先生って人は何をしているの?」
「もう引退しているみたいです。たぶん地元に住んでると思います」
記憶が戻った翔は、あれから当時のことについて色々と調べてみた。なにぶん十年も前の話なので、あまり情報は残っていなかったが。
「あとは、東堂がどうしたいか、だな。たとえば、彼の声を取り戻したいと考えているのかどうか」
問われて、翔は考え込んだ。一人で抱え込むのが辛くて貴久に頼ってしまったが、自分でもこれからどうしていきたいのか明確にはなっていない。
「正直、わかんなくて。何が本当で、何が嘘で……誰を信じて良いのか」
そう言って頭を抱え込んでしまった翔の背中を、いつの間にか立ち上がっていた貴久の手が優しく撫でた。
「もう少し冷静になって、よく考えてみた方がいい。きっと最善の方法が見つかる。東堂なら出来る」
力強く励ましてくれる声に、翔の目頭が熱くなる。
「ありがとう、ございます……」
なんとかそれだけを絞り出して、翔は溢れそうな涙を我慢した。
しばらくして落ち着いた翔は、事務所に設置されているデスクトップでデータ化された映像を観せてもらった。
どうやら番組の冒頭から予約録画していたらしく、しばらく無関係なローカルニュースが続く。
やがて、ずっと荒い状態で観ていた映像が、はっきりとした形で目の前に現れた。
「この子か」
隣で一緒に映像を観ていた貴久がつぶやく。
鮮明な画で観る聖の姿は、まさしく天使だった。
全身から眩しいオーラを放ち、誰よりも美しく輝いている。
「すごいな。日本でここまで歌えるボーイソプラノがいたなんて……」
「やっぱり、相当レベル高いんですね」
幼少期に多少かじった程度でそこまで詳しくない翔でも、なんとなくはわかる。
当時はただ美しい歌声と、ソリストであることに感心していただけだったが。
「でも、日本ではあんまりボーイソプラノって聞かない気がするんですけど」
「まず大前提として、先進国は声変わり時期の低年齢化が進んでいるんだよ。普通は歌唱法を身につける前に、声が出せなくなってしまうから」
日本もまた、食生活が欧米寄りになったことによる影響を受けている。
それに加えて、文化の違いも理由のひとつだった。世界各地では、宗教音楽を歌唱する機会が圧倒的に多い。
「そもそも基本的に、日本では変声期前にきちんとした指導を受けられる方が稀だからね」
「なるほど……」
確かに翔自身、学校の教師に勧められなければ合唱団に入ることなどなかったはずだ。
「そういう意味では、これしか音源が残っていないのは残念だな。このレベルなら、普通はアルバムの一枚くらい記念に残すものだけど」
「廃盤になってたりとか、メジャー流通じゃなかったりするんですかね」
翔の言葉に頷きながらも、貴久はじっとモニターを注視していた。
実質、聖が出てくるのはほんの数分なので、わざわざ戻して最初から見直している。
「聖のことを特集したコーナーだと思ってたけど、記憶違いだったんだな……」
ぽつりと翔がぼやいた。
どうやら、地元の歌が上手い子どもを何人か紹介する企画だったようだ。
インタビューを受けたり名前を出している子もいる中で、聖に関しては歌唱シーンしか放送されていない。
「とってつけたような編集の仕方なのが、ちょっと気になるな。ひょっとしたら、なにか事情があって削った場面があるのかもしれないね」
貴久の言う通り、聖だけが特に紹介もなく、唐突に出てきている感じだった。
「さすがに昔すぎるから、テレビ局に問い合わせても無駄でしょうしね」
「そうだな。それにしても……この、藤原くん? なんだか見覚えがある気がするんだよ」
貴久の言葉に、翔は自分が同じようなことを言ってメンバーにフルボッコされた場面を思い出した。
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