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第2部 11話

 佳祐にアポを取ってみるかという貴久の申し出を、翔は丁重に断った。  なんとなく、本人の知らないところであれこれ嗅ぎまわるのは良くない気がしたからだ。  どうやら翔自身も、かなり爽汰に感化されているらしい。  意外と影響力あるんだよな、ウチのリーダーは。  そんなことを思いながら家路につく。  明日はヴォーカル録りだが、まだアレンジが残っている楽曲もあるので全員がスタジオに集まる予定だった。  当然、聖とも顔を合わせることになるだろう。  翔は、自身が知り得た情報を洗いざらい彼に話すつもりでいた。  その結果がどうなるのかはわからない。当然、悪い方に転ぶ可能性も十分ある。  それでも、翔は万が一に賭けてみたかったのだ。  *****  翌日、昼からスタジオに向かうと、既にリズム隊がパート録りを始めていた。 「とりあえず、三曲は仮歌まで終わってるから」  翔は透から音源の入った端末を受け取ると、いったん廊下に出た。  歌録りの前には、いつも一人になって気持ちを作るのがルーティーンなのだ。  廊下の先、自販機の置いてある一角に目をやると、設置されたベンチに聖が座っているのが見えた。  ヘッドフォンをつけて身体を揺らしながら、目の前の紙に時々何かを書き込んでいる。  おそらくアレンジを考えているのだろう。翔は邪魔をしないように、踵をかえした。  屋上でも行くか、と足を踏み出した時、翔の耳になにかが届いた。  立ち止まって耳をすます。背後から響いてくるのは、紙の上をペン先が滑る音だけだ。    気のせいかと思った、次の瞬間。  かすかに、でもはっきりと――メロディーが、聴こえてきた。    慌てて振り向いた翔は、視線の先に聖しかいないことを確認する。  途切れがちなハミングは、確かにあの可憐なくちびるから紡ぎ出されているのだ。  信じられない思いで聖に近付いていきながら、翔は全神経を耳に集中させていた。  その囁くような音楽は、翔の聴覚を快く刺激する。  あと数歩、というところで、不意に聖が顔を上げた。  きょとんとした顔で翔を見ると、軽く首をかしげる。  やっぱ可愛いな……じゃなくて。ひょっとして、本人は声を出していたことに気付いてないのか?    無意識にやっていた行為なのだとしたら、その意味するところは何なのだろう。  翔はいくつかの可能性を考えたが、所詮そんなものはただの仮説だ。  目の前の張本人に話を訊いた方が、手っ取り早いに決まっている。  翔の様子に何かを察したのか、聖はポータブルプレーヤーの停止ボタンを押した。  ヘッドフォンを首にかけるのを待って、翔が切り出す。 「あのさ、今……聖、歌ってた、よな?」  問われた本人は、意味がわからないのか困った顔をした。 「聴こえてきたんだ。聖の、歌声が」  じっと大きな瞳で見つめられて、翔は少し弱気になってしまう。  そのことを彼に伝えて、一体どうしようというのだろう、と考え――それでも、もう後には引けない気がした。  この機を逃したら、もう何も進展しないのではないだろうか。  翔は、不思議そうに自分を見る聖の隣に座った。  そして、話し始めた。子どもの頃、彼の歌を聴いたことがある、と。  聖は最初こそ驚いた様子だったが、話が進むにつれて真剣な表情に変わっていった。 「俺、どうしても聖と話したくて……あの時めちゃくちゃ探し回ったんだよ」  核心に触れる前に、翔は少し間を空けた。聖もなんとなく察しているようで、珍しく眉間に皺が寄っている。 「それで、その……聞いちゃったんだ。楽屋の中の、話し声を」  聖は、翔から目を逸らさなかった。ただ、潤んだ瞳が今にも泣き出しそうに見えて、それ以上話すことを躊躇わせる。  あの、コンクールの日。翔は、楽屋の中で言い争う声を聞いた。  それはまるで、なにかを拒絶し、抵抗するような声音だった。  逼迫した室内の様子に気圧されて、一歩下がったその時。  勢いよく開いた扉から、探していた人物が飛び出してきたのだ。  彼は、その大きな瞳から大粒の涙を零していた。  とても悲しそうなのに、なぜかものすごく美しくて――翔はただ黙って、彼が走り去っていくのを見送った。 「その時は、何が起こったのかなんて見当もつかなかったけど」  翔は、先日母親から聞いた話をした。  聖の瞳が大きく見開かれる。そして、力なく首を振った。 「俺、その話を聞いてから……あの時、聖に何かあったんじゃないか、って」  今度はもう少し大きく、聖が首を横に振る。 「本当は、何があったの?」  聖は少しのあいだ考えていたが、やがてペンを手に取ると、楽譜を裏返した。  あのころ、まわりは声がわりが始まってて  ゆっくりと、聖は紙の上に言葉を綴っていった。  声変わりが、怖かったこと。  ボイストレーニングの先生から、しばらく歌を控えた方が良いと言われたこと。  歌えない自分には、価値がないから  白い紙の上に躍るその一文に、翔は胸が締め付けられる思いがした。  あれだけ美しい歌声を持っていても――いや、だからこそ、彼は周囲からの期待や重圧に押し潰されそうになっていたのだろう。 「じゃあ、あの時泣いてた理由って」  再び、ペンが動き始めた。  歌うことは、やめたくないって言った  でも、反対された  翔は、自分の勘違いに気付いて心から先生に侘びた。

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