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第2部 13話

 ずっと長い間、本人も意識しないところにしまい込んで鍵をかけていた感情。  主も気付かないうちに成熟していたそれは、いざ自覚するとおもいのほか激しく燃え上がった。  幼いころの彼に逢って、ひとめ惚れしていた自分。  初恋の相手に再会するという、運命的な出来事。  彼の秘密を一人だけ知っているという優越感。  それらは、翔の気持ちを昂らせるには十分だった。  そっと身じろぎする聖を、翔はようやく解放する。 「え、っと……なんか急に、こんな」  自分でもうまく説明のつかない行動の意味を、なんとか言葉にしようと努力する。  しかし、目の前の聖の様子がどこかおかしいことに翔は気がついた。  彼は自分ではなく、その後ろ――スタジオの入り口の方を凝視している。  慌てて振り向くと、そこにはじっと佇む人影があった。   「トール……」  黙ってこちらを見ているその眼差しには、あきらかな嫉妬が含まれている。  しかし透は、何も言わなかった。 「あ、もうヴォーカル録り? 悪い、すぐ行く」  翔は慌てて腰を浮かすと、ちらりと聖を見た。  困り顔でこちらの顔色をうかがっているその姿は、やはり可憐だった。  あまりの愛らしさに、もう一度触れたくなってしまう。  知ってしまったぬくもりや彼の身体のやわらかさは、とてつもなく強烈な誘惑だった。  なんとか足を進めながら、翔は先程の光景をどう透に説明したものか迷っていた。  彼の様子からして、聖を抱きしめていたシーンは確実に見られていると思っていい。 「抜けがけは、ナシだよな?」  すれ違いざまにそんなセリフを吐かれて、翔はなぜか逆に冷静になった。  妬ましさを隠そうともしない透の態度に、どこか憐れみさえ感じてしまう。  俺って、こんなに嫌なヤツだったっけ?  おもわず自問しながら、翔は自己嫌悪に陥った。  自分ひとりの一時の感情だけで、バンドメンバーとの関係を険悪にするなんて最低だ。 「後で、話がある……聖の、声のことで」  翔はそれだけを伝えると、足早に録音ブースに向かった。 *****  ヴォーカル録りは散々だった。そもそも音源を聴いていないのだから当たり前だ。気持ちが出来上がっていないどころの話ではない。 「しょーがねーなぁ。先に他の曲のアレンジ済ませようか」  ヘッドフォンから爽汰の声が聞こえたのを合図に、翔はちいさくなりながらブースを出た。  事情を知らないメンバーが呆れ顔で迎えてくれる。 「翔がこないボロボロなん、珍しいなぁ」 「爺のチャーハンでお腹こわしたんじゃない?」 「いつの話だよそれ!」  口々にフォロー(?)してくれるのが申し訳なくて、翔はますます身体を縮こませる。  スタジオの隅では、透が黙ってギターをつまびいていた。すこし離れたところに座った聖は、ずっと楽譜とにらめっこしている。  聴こえてくる弦の音色に気まずさを嗅ぎ取って、翔は思わず苦笑してしまった。  おそらく透は、先程のおとなげない態度を反省しているのだろう。  長い付き合いの二人だから、こうした行き違いは何度でもあった。  そのたびにどちらかが折れたり、時には衝突しながら、ここまでやってきたのだ。  翔は黙って透の隣に座った。  ギターのフレーズが、さっきまで苦戦していた音階へと変わってゆく。  それに合わせて、翔はささやくように歌い始めた。 「あいつらは仲が良いんだか悪いんだか、よくわかんねーな」  爽汰のつぶやきに、翔は笑みを浮かべる。  そして、やはり透の創るメロディーは世界一だな、と思った。

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