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第3部 1話

 仕事でギターの弦を張り替える時、聖はいつも持ち主のことを考える。  どんなプレイスタイルで、普段どうやって扱っているのかは、楽器の状態を見ればだいたい推測できるからだ。  その点、預かった透の愛機は、大事にされていることが伝わってきて思わず顔がほころんでしまう。  持ち主から可愛がられているとわかると、なぜかメンテナンスする側も嬉しくなってしまうのだ。  透のことは、エイジに紹介されるよりも前から知っていた。  特に用がなくても店に来ては、長い時間、ただ並べられた商品を眺めていたりしていたから。  見た目があんまりバンドマンっぽくなくて、すごく爽やかな印象だった。最初は俳優さんとかなのかな、と思っていたくらいだ。  彼のギターに対する眼差しは、本当に好きなんだ、とわかって、なんだか見かける度にほっこりした。  そして音を聴いて、もっと気になる存在になった。  明らかにあの人――自分にとっては恩人、であるところのギタリストだ――のプレイに影響を受けているのがわかったから。  だから、最初は勝手に親近感のようなものを抱いていただけだったのだ。  それが恋愛感情に発展するだなんて、聖は夢にも思っていなかった。  *****  インディーズ流通としては最後となるはずの『EUPHORIA』セカンドアルバムは、見事チャート三位を記録していた。  聖自身は特に順位など気にしていなかったのだが、それでもメンバーが盛り上がっているのを間近で見るのは、素直に嬉しいものだ。  ただ、メジャーデビューに向けての交渉が難航しているらしい、という話は少し気にかかっていた。  大手レコード会社数社から声がかかり、所属事務所もいくつか候補は挙がっているのだが、なかなかメンバー全員の希望に沿うというのは難しいらしい。  今日も透と爽汰のコンビは、片方の仕事が終わるのを待って打ち合わせに行く予定だと聞いている。  一方、聖はバイト先で、顧客のギターメンテナンスに勤しんでいた。   「久し振り」  背後からかけられた声に振り向くと、そこには佳祐の姿があった。 「まつなみ、さん」 「声を聞くのも、ずいぶんと久し振りだな」  そう言って、佳祐は口角を上げる。  あのレコーディングでの一件以来、聖は少しずつ声を出すようになっていた。  長く使っていなかった声帯の機能を完全に取り戻すにはまだ時間がかかりそうだが、日常会話程度なら支障がないところまで回復している。 「落合から聞いてるよ、まだ事務所決まってないんだって?」 「はい。なかなか、条件が合わないみたいで」  エイジに聖を紹介した張本人である手前、佳祐は『EUPHORIA』の状況をそれなりに把握しているらしい。 「例の案件は進んでないのか」  少しだけ声を潜めて、佳祐は意味ありげに微笑んだ。 「おれはまだ、何も……」  語尾を濁して困った様子の聖に、佳祐は苦笑いを返す。 「いいよ、本人に直接訊けばいい話だしな。それより」  言いかけて、佳祐は言葉を切った。  聖は黙って続きを待つ。  こういう時、つい小首をかしげて相手をじっと見つめる癖は、声を出せるようになってもなかなか直っていなかった。 「いや……思ったより大丈夫そうで、良かったよ」  ぽつりと呟く声に、聖はなぜか涙が出てきそうになって慌ててうつむく。  ひょっとして、様子を見に来てくれた、のかな。  過度な期待は身を滅ぼすとわかっていてもなお、まだ燻ったままのかすかな火種が、胸の奥を焦がす。 「もう、平気です。今は……仲間も、いるし」 「ナカマ、ね」  らしくない言い回しに、佳祐はまた微笑をこぼす。  そして、聖の頭に手の平をのせると、優しくぽんぽん、と動かした。  この人は、まだ……こんな些細な仕草だけで、おれの心を惑わすんだな。  思わず熱くなる頬を自覚しながら、聖は動くことも声を出すこともできなかった。  佳祐が立ち去っても、ギターを手にしたまましばらく固まってしまう。    いつまでも、こんなことじゃダメだ。  頭では理解していても、身体はなかなか言うことをきいてくれない。  それは、まだ思うように扱えない自分の歌声と同じで、聖を苛つかせる原因になった。  ちいさくため息をつき、作業の続きに戻る。  まだ自分の髪に残る、かつて恋い焦がれたひとの懐かしい気配を感じながら。

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