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第47話 すべてこわして

 草薙のもとに三浦 椿から連絡が来たのは、12月の終わりだった。  待ち合わせ場所の喫茶店に現れた椿は、目のまわりに赤黒いあざを作っていた。  橘銀一郎に殴られたのだと打ち明けた椿は、その後移動した警視庁で、須長殺しの犯人は橘だと証言した。  任意同行された橘は、あっさりと須長殺しを認めた。  ……橘は、人を殺すことに快感を覚える一種のサイコパスだった。  幼少期は小動物を殺すことでその欲求を満たしていたが、大人になるにつれ、人間を殺したいという欲が強くなった。  もともと人たらしでもあった橘は、裏社会でメキメキと名を上げ、丹下組の組員に近づき、誰かを殺すため、ヤクザになった。  組同士の抗争など、橘にとってはどうでもいいことだった。  三浦 椿と出会い、橘は新たな欲望を覚えた。  それは美しい獲物を自分のモノにしてから殺すことだった。  福生の米軍基地の軍人だった父親譲りのエメラルドグリーンの瞳で、玄人の女をも虜にしてきた橘にとって、恋愛に初心(うぶ)な椿をおとすことなど朝飯前だった。  男の欲望を浴びて生きてきた椿に対し、あえて無関心にふるまい、好感をもたせる。その一方でさりげない優しさを見せ、意味ありげなセリフを吐いて椿の気を引く。  クラブの火事は想定外だったものの――三浦家に戻ってからの椿の動向を探ることも欠かさなかった。  ケツマンコ奴隷カメの動画配信を発見したのも、橘自身だ。  泥のなかで咲く蓮の花のように、汚されれば汚されるほど輝く椿の美しさは稀有だった。  どうにかしてこの魅惑的な花を――自分自身の手で手折りたい。  橘はワクワクした。  どんな風に殺そう。  銃で脳を吹っ飛ばすのはもったいない。  首を絞めて殺すのはどうだろう。  できれば正面から扼殺(やくさつ)して――美しい顔が苦痛に歪むさまをしっかりと見届けたい。  ――椿が銀の異常性に気付いたのは、銀が見ていたパソコンの履歴を偶然目にしたことがきっかけだった。  銀は、さまざまな死体の写真の掲載されたサイトを閲覧していた。  表示された検索ワード。  「絞殺」「ひも」「扼殺」「首を絞める時間」……  その少し前から、銀はセックスの最中、椿の首を軽く締めてくるようになった。  頸動脈のあたりを押して失神直前まで追い込むプレイのようなものだったが、そのときの銀の目の猟奇性が、椿に不信感を抱かせた。  もしかして……この人は……  ためしに、たまには外に出たいとさりげなく甘えてみた。  すると銀は、「ぜったいにダメだ」といった。  「なんで――」といいかけた椿の顔をいきなりグーで殴り、   「ダメだっていってるだろ! わからないのか! この男娼ふぜいが!」  と般若のような顔でののしった。  椅子から転げ落ちるほど吹っ飛ばされた椿は、打たれた顔をおさえ、わななく瞳で銀を見上げた。  そのときにはもうきっと――すべてこわれてしまっていたのだった。    橘の誤算は、椿の意外な賢さに気付けなかったことだった。  椿は、一度覚えたことはぜったいに忘れない抜群の記憶力の持ち主だった。  その日は、丹下組組長の出所の日だった。  銀が千葉の刑務所まで出迎えに行く――その隙をついて草薙に電話をかけ、マンション近くの喫茶店まで迎えに来てもらった。  3か月ぶりに出た地上の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。  警察は、東京の組事務所に戻ってきた橘を任意同行し、容疑を認めたところで逮捕に切り替えた。  ――橘 銀一郎が勾留先の留置場で首を括り自殺したのは、その年の大晦日のことだった。                        ※             「……あ――……」  ベッドに横たわり、天井を見上げていた椿は、遠慮がちに病室に入ってきたひょろりとした長身に目を向けた。 「……草薙さん――」  コートを脱いだ草薙は、洋菓子店の袋を脇に置き、「やぁ――」とベッド脇のパイプ椅子に腰かけ、頭に付いた雪の粒をはらった。 「外はとても寒い。雪が降りはじめてきたよ」 「……ほんとだ」  起き上がり、4階の病室の外を見る。  粉雪が、風に踊るように舞っている。 「――ここはこんなに暖かいのに……」  前開きの入院着姿の椿はつぶやく。「外は氷の世界なんですね」 「…………」  数週間会わないうちにずいぶん痩せたな、と思う。    銀の死の知らせを受け、警察に保護されていた椿は倒れ、そのまま入院した。  何も喉を通らず点滴だけで生きていたが、ここ数日はゼリーなど少しずつ()れるようになってきたという。 「昨日、橘の母親が、遺骨を受け取りに来た」  草薙は単刀直入に話を切り出した。 「須長の事件については、容疑者死亡のまま、いずれ書類送検されることになる。こんなふうに捜査を終えることになるのは我々の不手際というよりほかにない。せっかく君が勇気を出して証言してくれたのに――ほんとうにすまない……」   「いいえ……」  椿は小さく首を振った。 「草薙さんがいなかったら、ぼくはいまごろ、あの人に殺されていた。だからもう――いいんです」 「……これから何回か、君に事件のことを確認するかもしれない。そのときはまた協力してくれるかい?」 「はい……」  短い沈黙の後、 「ぼくの友人で、埼玉で印刷会社を経営しているヤツがいるんだ」  草薙は話を変えた。 「そこは寮がある。住み込みで働きながら、夜間の高校や大学に通っている若者もたくさんいるらしい。……もし君が望むなら、働けるよう相談してみるよ。君の叔父さんのことは、ぼくから説得して――」 「草薙さん」  唇の端を上げ、「……ありがとうございます」と椿は薄く笑う。  ぞくっとするほどに美しい、魔性の笑み。 「……入院しているあいだ、ずっと考えてました」  窓の外に目を向けた椿は、胸のうちをゆっくりと打ち明けた。 「たとえばぼくが死んだら――何か、変わるんだろうか。……お母さんが亡くなってあの家に連れていかれてからずっと、ぼくは叔父と従兄弟たちの奴隷だった。いろんな自由を奪われ、まるで家畜みたいに扱われて……。  死んだらラクになれるのかもしれない。何度もそう思ったけれど、死ぬ勇気もなく、ここまできた。――だけど今回本当に殺されるかもしれないと思ったとき、はじめて、自分は生きたいと願っていたことに気付いた……。  ぼくが死んでも、結局何も変わらない。死んでしまったらもう何もできない。そんなの、とてもつまらないし、なんだか悔しい。だから――もう死にたいとは思わないことにしました。  どこに行っても、きっと行きつく果ては同じ――だったらぼくは――ぼくの好きなように生きていきたい……」    ……雪のなか、鳥たちが長い隊列を作り飛んでいる。  同じ方向を目指しているようで、どこかちがう場所に飛んでいってしまうものもいる。群れから離れた鳥は――いったいどこに行くのだろう?   「……そうか」  椿が前向きになってくれたのだと思った草薙はほっとした。  よかった。  きっともう――大丈夫だ。 「そういえばプリンを買ってきたんだ。一緒に食べないか?」 「……はい」  熱いくらいの暖房に、椿の頬にうっすらと赤みが差す。  それからふたりでプリンを食べ、草薙の息子の話などをした。  ――その一週間後。  草薙が埼玉の友人の連絡先を持って見舞いに来たときにはもう、三浦 椿は姿を消していた。          

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