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第15話
トールは弓矢を携え、独り住む家を出た。
何もない。誰もいない。
鍵をかける必要もなかった。
家を出ると、眼の端に人影が見えた。
三つ年下の、従姉妹のフィーネ。彼はそれに気がついたが、知らない振りをしてそのまま背を向けて歩きだした。
フィン……最近、ああやっているな。
何か言いたげに……。
そう思ったが敢えて聞く気にもならなかった。
★ ★
村の者もめったに入らない昼なお暗い森のなかへ。そして、近隣の村々からも“悪魔の谷”と呼ばれ、けして誰も立ち入らない奥深くへと入り込む。
ごつごつした岩肌には草木も生えず、急な斜面もあり下りて行くのにも危険が伴う。
しかし、一番下の平地までやってくると、綺麗な水の流れる川があり、緑の絨毯に小さな可愛らしい花も咲く。
人の介入のない穏やかで美しい場所。
森と谷で狩った獲物を川の脇に置き、血で汚れた手を綺麗な水で洗い流す。
魚が泳いでいるのが見えた。
やや険しい顔をしていた彼の口許に笑みが浮かぶ。
着けている衣服を全て脱ぎ捨てた。
細身でそれほど背も高くはないが、ほどよく筋肉もついている。
この険しい谷に何年も通い、狩りをしてきたおかげだろうか。
足を水に浸す。
「ちょっと、冷たいか」
まだ初夏のこの季節に動けば暑くはなるが、川に入るには早いかも知れない。それでも構わず腰の辺りの深さまで進んで行く。
泳いでいる魚を素早く捕まえ、放り投げる。魚は川岸でぴちぴちと跳ねた。
狩りがまだ上手く出来ない頃、魚ばかり捕ってた……。『』が狩りをしている間に……。
脳裏にそんな言葉が浮かんできて。
「え……誰と……」
父親は余所者で、森の獣を狩って生活していた。村の誰もしないそのことが、余所者という以外で、村の者に嫌厭される要因だった。
しかし、それはトールが三歳の頃までの話で覚えてもいないし、谷にまで来ていたという話も聞かない。
彼はこの谷に来ると、時折不思議な感覚に囚われる。
ひどく懐かしいような……。
それはフィンの家を出て独りで暮らしてから、初めてこの谷に来た時から感じていたことだ。
そして、不思議なことも。
月の綺麗な夜半にここに来たくなることがある。
怖いと思ったことはない。森も谷も彼に優しい。
そんな時に見る。
幻影なのか、夢なのか……。
一面の、瑠璃色の花。
岩肌といわず、水のなかといわず。
谷全体が、瑠璃色に光って……。
そして、時折見える、銀色の影。
あれは、いったい…………。
ぼんやりと物想いに耽っていると、ぴしゃっと水が顔にかかる。大きな魚が跳ねて、また水のなかを悠々と泳いでいくところだった。
トールは顔を滴る雫を拭い、何気なく川面を見た。
自分の姿がぼんやりと映っている。
いつからだろう。ここにある、紅い花のような痣……。
自分の裸体をこの川面や家の鏡に映すと、必ず見入ってしまう。こうやって、ぼんやりとしか映らなくも脳裏にははっきり浮かんでくる。
彼は鎖骨の窪みの辺りにある紅い痣に指で触れた。
ここに触れるとなんだか……。
人の気配……。寄り添うような感触。
囁く声……それは、言葉にはならず………。
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