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第27話
トールの額にかかる金色の髪を指先で跳ねあげ、小さく口づけを落とし、すぐに離れた。
「この幼子だ……と。この子がトールの生まれ変わりだとすぐに解った。が、遠くから眺めているしかなかった。“銀の魔物”と呼ばれるような姿を見せるわけにはいかなかった」
★ ★
父親が狩りをしている間、幼子は独り遊びをしていた。白銀の獣はそれを、ただずっと見守っていた。狩りを終えた父親が再び子どもを抱き上げ、帰途に着こうとするまで。
その時、小さな奇跡が起きた。
幼子が振り返り、肩越しに獅子のいる方向を見詰めた。勿論、その子にはその姿は見えていないのだ。
幼子は「抱っこして」とでも言いたげに、両手を大きく広げ、そして、無邪気に笑った。まるで、母親へ無償の愛と信頼を向けているかのような姿だった。
その夜は、一際月光が美しかった。
荒涼とした谷の、それでも美しい水の流れる川の畔。そこに、白銀の輝きがあった。
前足を伸ばし座している獅子は、眠っているかのように眼を閉じている。
唐突に、誰もいない筈のその場所に、何者かの気配を感じた。
獅子は眼を開け、立ち上がった。
近づいてくる人影がある。それは、とても小さな人影だった。
白銀の獅子は、グルルと唸って威嚇する。
その小さな人影は──昼に森で出逢った幼子だった。
そう、愛しい弟の生まれ変わり。
常ならすぐにその気配で気づく。
だが、この時は間近に来るまで気づかなかった。
何故なら、彼は手負いだったから。気が立っていたことが、感を鈍らせる。
彼の胸許には血が散っていた。白銀に映える紅い花のように。
肉体ばかりではなく、心も痛かったのだ。
己よりもかなり大きいその獅子を、幼子は怖がりもせずに、その鬣 を触れられるくらい間近に立っていた。
その瞳に見詰められ、獅子も静かになる。
幼子は、彼の胸許の紅い花に触れる。今もなお癒えない傷を、その小さな両手で押さえた。
すると、不思議なことに、肉体の痛みも心の痛みも、ふっと消えていった。
獅子はその子前に静かに座った。
幼子は、にこっと笑い、彼の首に手を回して抱き締める。
『にいさん……』
風が耳朶を撫でるようは密やかさで、その声は聞こえてきた。
その子の口から零れた声は、しかし、けして子どもの声ではなかった。
愛おしい弟の……。
たった一言。その後は、ない。
獅子──兄の胸に、喜びと哀しみが同時に込みあげた。
己の傍らで静かに眠る幼子を、彼は静かに見守った。
谷の何処かで、瑠璃色の花が綻んだのを感じながら。
月光が陽光に変わる。
目覚めれば、彼は独りだった。
そう、あれは、夢。現 ではない。
あんな夜更けに幼子が独りで険しい谷の底に来れる筈もなく、獅子は傷を負ってもいない。
あの傷は、前世の傷。そして、心の傷だった。
夢だが、ただの夢でもない。
瑠璃色の花は、確かにこの谷の何処かで咲いている。
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