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17.悪夢、月明かり
怪物が追いかけてくる。罵声。恐怖。
逃げる自分の腹はぼってりと膨れていた。
重い腹を揺すって、ひたすら逃げる。
どこへ?
どこへ向かう?
そっちは行き止まりだ。
わかっているのに足は止まらない。足を止めたら最後、怪物に捕まってしまうから。
下り坂を、転がるように駆け降りる。
腹にナニが宿っている?
怪物の子供か。
突然、横から幽霊の手が伸びてくる。
悲鳴を上げて身をよじり、逃れる。幽霊の手は透けていた。逃れた脇からまた別の幽霊の手が伸びてきておれの服を掴もうとする。
逃げる、逃げる、逃げる。
捕まっちゃいけない。
逃げ切れるのか?
逃げた先にはナニがある?
ふ、と足下が消えた。乗っていたエレベーターが落ちたのだ。
浮遊感。
落ちて、落ちて、落ちて、
穴の底へたどり着く。
砂塵や瓦礫を巻き上げるほどの墜落だったのに不思議と衝撃はなかった。
着いたのは222階。
怪物はもう追ってきていなかった。
ハルは寝苦しさで目が覚めた。背中にじっとりと汗をかいていた。自分のアパートとは違う部屋とベッドの大きさに一瞬混乱し、ここがどこだか分からなくなる。
「痛ッ……!」
寝ぼけたまま無意識にガーゼを当てられた傷口を掻いて、痛みで顔をしかめた。
(そうだ…昨日は大変なことがあって、助けに来てくれたユキの滞在先ホテルに泊まったんだった…)
(すごく嫌な夢だったな…なんだあの怪物…)
夢の中で恐ろしいものに追いかけられていたせいで目が覚めたいまでもドキドキして指先の震えが止まらない。それにひどく喉が渇いていた。空調を掛けっぱなしにしていたせいで空気が乾燥しているのだ。
夢なんて最近見ていなかったのに、しばらくぶりに見てみたら怖いし意味深だし目覚めも悪いし最悪だ。
(まだ夜中じゃん…全然寝られてない)
スマホの電子時計はようやく0時を差したばかり。
(あいつ、帰ってきたのかな)
スリッパを履くのも面倒で、素足でぺたりぺたりと寝室を出てリビングへ。歩くたびにガーゼに貼られたアザや医療テープがひきつれて、無意識にそこを庇って歩いた。
食べ残したルームサービスは全部片付けられていて、テーブルはまっさらになっていた。ということはユキが帰ってきたということだ。
部屋の明かりは付いていない。
真っ暗なだだっ広い部屋を照らすのは窓の外の月明かりと、眠らない街・大都会の夜景。ビルのそそり立つ街は車と人でいっぱいだ。
(綺麗だ)
素直にそう思った。昨日自分が酷い目に合わされた都会の街の夜景は良いことも悪いことも全て内包し、それでも美しくネオンを瞬かせていた。その明かりを愛しく思い、そして同じくらい憎しみを感じるのはなぜだろう。たぶん、おれがその街の人間の住人だからだ。良い面も悪い面も持っている自分の姿を街の明かりに投影してしまうのだろう。
今夜の満月はとても大きく、近くて、傷ついた自分の心をやわらかく撫でてくれている様な気がした。
窓辺に張り付いて、ちらちらと瞬く明かりを俯瞰から眺めながら少々センチメンタルな感傷に浸り、喉の渇きを癒すために冷蔵庫へ。ミネラルウォーターを片手に、ひとつひとつ部屋を巡る。
(あ、帰ってきてるじゃん)
(起こしちゃ悪いよな…)
三つ目のベッドルームに、黒い大きな獣が寝そべっていた。キングサイズのベッドのうえで丸くなってすっかり寝入っているようで、忍び足で近づくハルの足音に気付きもしない。
子どもの頃から大好きだった獣人。濃い色の毛並みは月明かりで毛先が透けてキラキラと輝いていて、触らずにはいられない。ベッドのへりに腰掛けてハルがそっと触れてみると、さすがにその刺激で目が覚めたらしい。獣は大きな首を持ち上げて耳をピンと立て、金色の目でハルを見据えた。
「ヴゥ……」
「あ、ごめん、起こした?」
獣型は人語を話さない。ハルもそれは知識として知っていたが、先日の獣人居住区実地調査を通じて改めて実感し、そしてそれを魅力的に思っていた。例えば人がものを話さない動物の気持ちが分かったり目を合わせるだけで心を通わせた気になったりするように、獣型の彼らにはそういった不思議な魅力がある。ある学者は獣人族を愛の伝道者だと表現していたが、これがそれなのかもしれない。そばにいるだけで不思議な、深い親愛のメッセージを受け取る様なきがする。
獣型のユキは突然寝室に訪ねてきたハルを邪険にするでもなく、どうぞ、とばかりにすこし身体を傾けてベッドをすこし譲ってくれた。
(ふふ。かわいい、ばあちゃん家の犬みたい)
ありがたくベッドによじ登って、そのモフモフの毛皮にモフッと身体を預ける。高級ホテルの高級羽毛布団なんて目じゃないくらいモフモフでツヤツヤだし、あったかいし、デカいから抱擁感ヤバいし、っていうか布団よりこっちのほうが良いな。寝心地のいいポジションを探してもぞもぞしてみたがユキは一向に気にならないようで、フンスッとひとつ鼻息を吐いて二度寝しようとする。
「いつ帰ってきてた?気付かなくて悪い」
地上に住む生き物で、これほど誇り高く美しい獣はほかにいない。モフモフが大好きなハルは小さい頃らかしょっちゅう動物園に通っては柵の向こうのトラやライオンに目を輝かせたものだが、本物の獣人族には何者も敵わない。どこを触っても滑らかな毛並み、力強い筋肉と、肺に酸素を取り入れるたびに大きく膨れる胸郭。3メートル近くある体躯は、ハルひとり寄りかかったところでびくともしない。トトロのおなかに寝そべったメイちゃんはこんな気持ちなのかも、と思う。
「怖い夢見ちゃってさ…なんか寝れなくなって…」
「あと、ごめん、色々…」
カフェに置いてきたことも、路地裏でのことも、風呂場でのことも、今更どうでもいいことのように感じられた。きっと満月のせいだ。柔らかい明りで心の中を照らして、嫌なものをすべて吸い取って浄化してくれたのだ。
ユキは尻尾をふわりと振って答え、毛布代わりにハルの身体に掛けてくれる。優しい"許し"の心と、いいから寝ろというメッセージを感じてハルはふふふと笑った。口下手なこいつの背いっぱいのボディランゲージ。おれのやったことをおまえが許すなら、おれもおまえのこと許すよ。全部許してやる。
だからちょっとだけ、からだ貸してて。
健やかに上下する獣の身体に全身を預け、心音と呼吸を感じながら穏やかに眠りについた。
夢の主な意味:
1 怪物に追いかけられる夢…精神的に不安定。未来を受け入れる余裕がなく息苦しい
2 妊娠が怖い
3 下り坂…体調面、精神面で落ちこんでいる
4 幽霊…不安の象徴
5 エレベーターで落ちる…心境、環境の変化
6 数字222…2が連続したエンジェルナンバー。ここでは妊娠を暗示。エレベーターが落ちても怖くなかった、階が上がっているのでここでは吉報の予知とする
総評。トラブルが続いているため精神的に落ち込んでいる。この先訪れる予感のする未来とそれに伴う環境の変化(婚姻〜妊娠)を恐れている臆病なハルの性格が現れていて、でもこの先は"良いこと"があるから大丈夫という深層心理からのメッセージの含まれた吉夢。
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