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【奔走編】45

「出張?」 「そう。二日ほど国を空ける」 ユキがそんな話をしてきたのは、正装に袖を通している最中だった。 本日は全議員を集めた城の大広間にて結婚挨拶と就任挨拶をする予定だ。着任したばかりの皇太子妃の初公務ということで、その注目度は桁違いだ。一部メディアも入り、環境が整っている国内の一部地域では中継もされるらしい。 ハルはごく普通の一般家庭で育った、ありふれた学生だ。中学は学ランで、高校はブレザーだったし、私服は夏場であればTシャツ、冬場はフーディとデニム。フォーマルシーンで使用した唯一のスーツは大学の入学式と成人式以来袖を通すこともなく、つまりおしゃれに疎い男代表として過ごしてきたハルが王族のフォーマルウェアに抱いた感想は「きっと綿素材ではない」というものだった。綿素材じゃないなら何なんだろう…と思いつつ、パピヨン耳の獣人の召使に言われるがままフリルシャツに袖を通し、インナーベルトを付け、袖なしのベストを着てジャケットを…と、付属品が多すぎて何も分からない。 皇太子妃として日が浅い自分を痛感する。皇太子妃としての勤めを自分が全うできるかどうか、そして国民や議会に自分を受け入れてもらえるのかどうか… 不安に押しつぶされそうになりながら、必死で自分を鼓舞していたのに。 それなのに、生涯のパートナーの口から突然飛び出した『出張』という言葉。 「いつから?どうして?どこに行くの?」 「明日からでございます。我が王とユキ様、お揃いでお出掛けになります。ですのでハル様は…」 「明日?俺は留守番ってこと?」 「…それは…」 老執事は口籠もり、ユキの方へ視線を送る。 「ハルは城で待っててよ。そのほうが『安全』だから」 ユキはいち早く皇太子の正装に着替え終わり、マホガニー製のドレッサー前で、議会進行表に目を通していた。 ジャケットは艶やかな光沢のある黒生地で、豪華な金刺繍が縫い付けられており、肩から腰へ掛けられたサッシェ(地位や権威などを表す帯)や見事なエポレット(肩飾り、肩章)、胸元でこぼれ落ちんばかりに煌めく宝石と勲章が王家の威厳を示していた。 丁寧に磨かれた革靴を履いた長い足を組み、獣人の召使に囲まれているその姿は、最高級のマホガニー材特有のブロンズのような風合いと相まって、非常にロイヤルだ。 「安全って?どういう意味?」 ハルの疑問を受け、ユキが書類から顔を上げる。居住まいを正すその所作だけでも、王になるべくして生を受けた者特有の品格が漂う。 「ここ数ヶ月、保護区と諸外国との国境外付近に蛇の獣人族が幕営してることが何度かあってね、その度に王国騎士を派遣して追っ払ってるんだよね」 「物騒だな…」 「今の段階で分かっているのは彼らが蛇の獣人集団で、非武装であること。分からないのは指導者が誰で、目的が何かということ。今のところ直接的な被害はないけれど、いずれあるとも限らない」 皇太子夫妻の、不穏な会話。 ユキの髪に櫛を通していたダルメシアン耳の獣人が耳をそば立て、不安げに尻尾を揺らした。衣装部屋に集まって身辺の世話を焼いていた他の召使たちもまた、ぶるぶると身体を揺らしたり、あくびをするなどした。犬科の動物のこういった仕草はカーミングシグナルといい、自分や相手を落ち着かせるための行為であるが、真面目で険しい顔をしていたハルはちょっとしたカルチャーショックを受けた。 「それで、人数は?」 「およそ十人。テントは二張り。幕営地だから詳しいところは分からない。小規模だよね。ただ、俺たちの認知してない所でもっと大規模な集団もいたかもしれない。いずれも王国騎士は直接接触したわけではなくて、『監視対象である』ことを向こうに気付かせただけ。それで、こちらに気付いたあちらさんはしばらくして撤収を始めたらしい」 「ますます怪しいな…」 「定例会議でも何度も議題に挙げていて、議員のおじいちゃんたちは『戦争でも始めるのか、その偵察をしているのか』って言ってる。否定はできないよね。蛇の獣人は気性が荒い。国の一部は砂漠化が進み、貧困と内紛が絶えないと聞く……」 「………」 「今回の国交では、蛇族へ安全保障協力を要請する。言わば牽制であり警告だ。ここは世界国際条約で定められた保護区域で、古来からの土地所有権を主張して俺たちが勝ち取り、生息と自治を許された俺たちのテリトリーだから。保護区域に指定される以前は、外敵に国土を略奪され権利を侵された、血塗られた時代もある。歴史を繰り返さないためにも、蛇族の動向には充分に注意を払う必要がある」 ユキはそこまで一気に話すと、興奮と獰猛さを抑えるように、ぐるる、と喉の奥で低い唸り声をあげた。 遠くにいる敵を見据えるように鋭くなっていた目を、ふ、と緩めたユキは、争いの気配で緊張して身体をこわばらせていたハルに手を伸ばす。 ハルは誘われるようにそこに手を重ね、気付けばユキの膝の上に座っていた。 「…だから、ハルは国で待っていてほしい。会えばわかると思うけれど、蛇の獣人はあまり平和的な種族じゃない。万が一何かあっても俺たちには牙も爪もあるけれど、ハルはそうじゃないでしょ」 「…でも…」 「ハルは留守番。おれのためにも、ね?」 ユキは、ハルの寝癖のついた髪を言い聞かせるように、慈しむようにゆっくりと撫でた。伝わってくるぬくもりが、何があっても守るから、と心に語りかけてくる。 「………でも…」 「ハル様、ご心配には及びません。ユキ様はこうお話されていますが、今回の蛇族の国への訪問は近国の挨拶程度のもの。あちらも諸国への体裁がありますゆえ、いますぐに何かが起きるようなことはないでしょう。もちろん油断は禁物ですが、警備に警備を重ねてまいります」 「蛇族と話すのは荷が重い。一語一句にも気を使うからね。失言でもすればどうなるか…」 「ユキ様。あまり脅すようなことを仰られるのは…」 「夫婦に隠し事はなしだよ」 ユキは膝に乗せたハルを、ぎゅ、と強く抱きしめて、クンクンと頭皮の匂いを嗅ぐ。 「おい…っ!」 (こんな所で性癖披露するな!)(汗) そのままクンクンと頭の匂いを嗅がれ、耳に歯を立てられ、無意識か、それともわざとなのか、腹に回されたユキの腕がハルの子宮を圧迫する。毎晩のように愛され続けて感度の上がったハルの身体は、それだけで熱を持つ。 「…っ、!」 (ばか、こら!!!) 「仲が良いのもよろしいですが、ユキ様、ここは衣装部屋ですし、このあとは朝礼議会が控えております。皆の士気に差し障ります、どうぞ場所と時間をわきまえてくださいね」 「へーーーい…」 ダルメシアン耳の獣人の召使がそそくさと寄ってきて「ユキ様、本日の髪型はいかがいたしましょうか」と明るく声を張る。 「うーん、後ろでひとつにまとめてもらおうかな」 「かしこまりました」 「上半分だけね。下の髪は結ばないで垂らすかんじ」 「はい」 ダルメシアン耳の獣人は櫛と黒いビロードのリボンを使い、ユキの髪をハーフアップにしていく。 肩まで届く長い髪は、獣型の時と同じ毛色だ。前髪を後ろへ撫で付け、艶やかで豊かな髪を黒いリボンで結ぶ。男らしい眉と、凛とした強さを感じさせる顔立ちが、煌びやかな衣装と髪のリボンで一層華やかになる。それは、以前ハルがテレビ越しに見た「王子」の姿と同じだった。 (それなのに、俺は) 鏡に映った自分は、幼く、頼りなげに見える。 この後、議会で自己紹介を兼ねたスピーチを披露する予定だ。スピーチ原稿はポケットに入っている。獣人の王にも、ユキにも、老執事からも指導を受けて作った完璧な内容だが、いざ議会で披露するとなるとプレッシャーが強い。 ハルはユキの膝から降ろされ、召使にヘアオイルで髪をセットしてもらう。頭からつま先まで完璧にフォーマルにしてもらったはずなのだが、鏡に映った自分は不安げな表情をしていた。 「…大丈夫かな」 ハルの独り言を聞きつけた老執事は、「大丈夫ですよ」と微笑んだ。 「よくお似合いですよ」 「そうかなあ」 鏡の中の自分は、どう見たって『服に着られている』のだが。 「顎を上げて、胸を張ってください」 「こう?」 「靴の踵は合わせて。つま先はすこし開いて、まっすぐ立ちます。男性の場合、拳は軽く握って、身体の横に置きます」 老執事は鏡の前でハルの肩に手を添え、姿勢を直してくれる。 「深呼吸なさってください。鼻から吸って、ゆっくりと口から吐きます」 「はい」 「こういうものは、形から入った方が良いのです。美しい姿勢は美しい心を生みます。それだけで堂々として見えますよ」 「はい」 「大丈夫です。私たちが付いております」 老執事は鏡越しにハルに微笑みかけた。それは、若者の未来を祝福し、心から応援している笑顔だった。 鏡の中の自分は、今度はしっかりと地に足を付けて立っていた。

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