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55.出発の朝
早朝。
朝霧のモヤの立ち込める城の庭で、王族騎士たちが出発の準備をしていた。
馬に鞍を乗せる者、荷を確認する者、地図を見る者。
日の出の直後だ。空は明るくなっているが霧はしっとりと肌寒く、夜の気配を残している。
ハルは上着の前を合わせ、雑踏の中を進む。
「おはようございます」
ハルに気付いて挨拶をしてくれたのは、王族騎士隊長のリーだ。出発を目前にした集団を束ねるリーは、若く、頼もしい気迫をしていた。
「大変な荷物ですね」
「そうでしょう。蛇の獣人の国まで、直線距離で半日以上掛かります。道が通っておりませんで、多少難航する覚悟で我々も準備しております」
「馬の足でも難航するのですか?」
「左様です。馬はどちらかというと運搬のためです。スピードは我々の肉球の方が静かで早い。しかし、たくさんの荷は運べません」
「なるほど…」
ぶるるる、と馬が鼻を鳴らす。足が遅いと言われ、気を悪くしたのかもしれない。
「ハル!」
「…おう」
朝の濃い霧の向こうから、蹄の音が響く。霧の中から現れたのは、黒鹿毛に跨ったユキだ。出発前に少し慣らしてきたのか、馬もユキも、白い息を吐いている。
ハルは、若干の気まずさを感じる。
なぜなら、二人は昨晩ケンカしたまま、仲直りをしていないのだ。
所詮、新婚夫婦の痴話喧嘩である。その場で『ごめん』と一言言えば丸く収まっただろうが、ハルは怒ってユキを部屋から追い出し。
ユキは、隣の自室で寝たのであった。
(分かってはいるんだよ)
(おれ、まじでガキだよな…)
(言わなくてもいいとこまで言っちゃった気がするし…)
『なんでヤってくれねぇんだよ』
『お前の考えてることが分からない』
『っていうかお前の行動はいちいち突飛すぎる』
『付いていけない』
……そんなことを、自分は言わなかっただろうか?
元を正せば、本番するだの、しないだの、その程度のケンカだったはずだ。
だが、ホルモンバランスのせいで精神的に不安定になっているハルは、あれもこれもと、不満を爆発させてしまった。
こういった構図は、付き合いたての若いカップルには付き物である。しかし二人はお互いが初めての恋人で、しかも電撃結婚に近いスピードでゴールインし、交際期間も短い。
つまり、これまでケンカらしいケンカをして来なかったのだった。
ユキが何をしたら怒るのか、どうしたら許してくれるのか。
完全に手探り状態である。
自分が悪いのは分かっている。
でも、仲直りの仕方が分からない。
(部屋から追い出したの、怒ってるかな…)
(おれ、すげー高圧的な態度取ってた気がする)
(ごめんって言えば許してくれるかな……)
(聞き分け悪いΩなんて、結婚破棄されるかも…?)
(ユキだって一生懸命我慢してるんだし…おればっか目先に囚われて…)
(だめだ、全然思考がまとまらねぇ)
パカ、パカと心地よい蹄を響かせて、ユキを乗せた馬が近付いてくる。いつもは無造作に垂らしている長めの髪は、後ろで一つにくくられていた。
顔のいい男の見慣れない、似合いすぎる乗馬スタイルに、ハルは動揺する。
(め、、、、ちゃくちゃ格好いいじゃん!?)
(あーーーーッケンカなんてするんじゃなかった!)
「おはよ」
「…はよっス……」
ハルは気まずく思いながら、いつもより高い位置にある頭を見上げる。今朝は各々の部屋で起床したので、これが今朝初めての会話である。
「ハル、あのさ……」
「ユキ様!ご準備はいかがでしょうか?」
その時、王族騎士のリーが割って入る。
「準備できてるよ」
「では間も無く出発致しましょう」
「わかった」
リーは機敏な仕草で礼をして、隊列をまとめに向かう。
その中から、さっと隊列を離れる馬がいた。乗っているのは獣人の王だ。昨晩は旅の準備で寝なかったのかもしれない、伸びたヒゲが野戦的で、クマのできた目はギラギラとしている。
「ハル君。我々はしばらく城を開けるが、気張らずにやってくれ。何かあったら執事を頼るようにな」
「はい」
獣人の王はそれだけ告げると、隊列に戻っていく。
ユキの馬が反射的にそれを追いかけようするのを、ハルは呼び止める。
「ユキ、あのさ…!」
動いてしまった馬を、ユキが「どう、どう…」と宥める。手綱を握って馬の向きを変えようとするが、慌てたせいで指示がうまく伝わらなかったのか、馬はその場でくるくると大きく回ってしまう。
「なに!」
馬上から、ユキは鋭く叫ぶ。
忙しない朝。
緊迫した王族騎士たち。
彼らの気持ちが『こちら側』に無いことをハルは察してしまう。
そう、彼らは前を向いて進んでいる。
蛇族の国へと向かう彼らは、こんな、ちっぽけな自分のことなど見ていないのだ。
ハルは、言いかけていた言葉をぐっと飲み込んだ。
なるべく、明るく。
朗らかに。
ハルは、大きく息を吸い込む。
「気を付けて!いってらっしゃい!」
「応!」
ユキは腕を振り上げて応えると、馬の腹を勢いよく蹴る。
ーー黒鹿毛の馬は隊列に合流し、砂埃を上げて走り去っていった。
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