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56.遠距離恋愛、一日目

砂塵を上げて立ち去る隊列を見送り… ハルはひとり、肌寒い霧の中に残された。 (行っちまったな…) (新婚早々、遠距離かよ) だが、感情に浸っている暇はない。そんなものは故郷に置いてきた、はずだ。 ふと、母の顔を思い出す。 『アンタ小さい頃から、じゅうじんぞくのおよめさんになるんだって言って聞かなかったわよねぇ。まさかそれが現実になるなんてね…』 『あんたが家を出て行く日が来たら辛くなったら帰って来なさいって言うつもりだったけど…』 『あんた、皇太子妃サマになるんだから。しっかりしなさい。待遇に甘えず、感謝の気持ちを忘れず、初心を忘れず、ちゃんとやるのよ』 『いってらっしゃい』 故郷を出る前に、母はそう言ってハルの背中を押した。 ポケットの中のスマホでいつでも連絡は取れる。だが故郷を出てから、なんとなく連絡をしていなかった。 これは男の子あるあるだが、「良い報告ができるようになるまでは」母には連絡をしたくない、という気持ちがハルの中にあったからだ。 (母さん、元気かな……) そんな気を巡らしていると。 「皇太子妃様、お風邪を召されます。どうか城へお戻りください」 「あぁ…うん」 出発隊の荷造りを手伝い、撤収をしていた王族騎士のひとりが声を掛けてきた。 考えを巡らすあまり、ハルは出発隊が去った方向を向いたまま、しばらく茫然と立ちすくんでいたようだ。 「……大丈夫ですか?」 「え?」 心配されたことにハルは驚いて、王族騎士青年の顔をまじまじと見る。 歳は恐らく、十代後半。素直で利発そうな青年だ。明るい赤茶色の耳を心配そうに後ろへ倒している。 (なんだ?そんな心配される様なことしただろうか) (あんまり突っ立ってるから変に思われたのかな) 「大丈夫、何でもない」 ハルは、なおも心配そうな顔をする青年に背を向け、城に戻った。 * 広いダイニングルームで、遅めの朝食を摂る。 暖炉とシャンデリアのあるダイニングルームだ。壁には、立派な額縁に入った巨大な風景画や、散財家だったという当時の国王がコレクションした美術品が並んでいる。 クロスの掛けられた長テーブルには、朝から豪勢な食事が何品も並んでいる。獣人は雑食であるが、主に肉食を好む。現在の国王と皇太子の意向もあり、食卓の中でも巨大なレア・ステーキ肉とローストチキンが異彩を放っていた。 (朝から重いな) 普段なら何とも思わない。同席している国王とユキがあっという間に平らげるし、会話は楽しいからだ。 しかし今朝は、この広いテーブルにハルひとり。 (…米と味噌汁が食べたい…) そう思いながら、パンにバターを塗って口に運ぶ。 (口の中の水分持っていかれる…) 紅茶でなんとか流し込み、次はチーズとベーコンを皿に取る。 味は、勿論良い。だが「獣人のための食卓」に「人間である自分」は合わないのだと思い知らされるようで。 (…静かだな……) しん、と静まり返ったダイニングルーム。 いつもなら、ユキに野菜も食えだの、せっかくの料理が勿体無いだの小言を言って、獣人の王に『痴話喧嘩だ』と笑われている所なのに。 暖かく、賑やかだった食卓が、もうこんなにも恋しくなっている。 (大丈夫、二泊三日だ。すぐに帰ってくる) そう自分に言い聞かせて、執務室へ向かった。

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