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57.遠距離恋愛、一日目、午後
その日は一日中、執務室に篭っていた。
昼食と午後のお茶の時間が休憩時間で、9時就業、17時退勤のサラリーマンのような生活である。
執務と言っても、やったことといえば老執事に議事録等の解説サポートを受けること、捺印できる書類には捺印すること。
その他は、国王かユキに直接承認が必要な為、「要確認」の紙束の山に重ねること。
中間管理職のような職務内容に疲弊しているハルを見兼ねてか、お茶の時間に老執事が雑談をしてくれたことが救いである。
「は〜〜…あと少し、頑張るか〜〜〜…」
一応の気合いを入れて、デスクに向かってみたものの…
甘いお菓子と紅茶を食べた後の、心地よい午後の陽気は眠気を誘う。
17時までもうすぐだ。
就業時間を目前に、ハルがうとうとし始めた頃…
執務室の外で、なにやら騒いでいる声がする。
(何だ?誰か来たのか?)
どすん、どすん、という重そうな足音の後ーー
「王!国王よ!」
執務室に入ってきたのは、貫禄のあるボディの男性議員であった。目の周りから頬にかけて、広範囲に渡る隈がある。顔もそうだが顎周りにもかなり脂が乗っていて、自己管理がなっていないタイプの議員、という印象だ。
議員は、部屋に入るなりハルを見て、眉を顰めた。
「なんだお前は?どこから入った?」
先日就任した皇太子妃に向かって、なんという不躾な言葉。
ハルはあまりのことに、事態に追いつけない。
ごほん、とそばにいた老執事が咳払いをした。
「なんだ、執事もいたのか。なんだこれは、どうしたことだ?王はどこへ行った?」
「タヌキイヌ殿…こちらは皇太子妃であらせられます」
「ハルです」
「皇太后妃ぃ?貴様が?」
慌てて立ち上がって右手を差し出したハルを、議員は上から下までじろじろと見て、ふんと鼻を鳴らした。
「男じゃないか!」
「ユキ皇太子様の正式なパートナーです」
「だが男だろ?」
「王国規約には、新たに王籍に入る方の性別について規定はございません。先日通達した公的書類におきましても、タヌキイヌ様からご承認頂けております」
老執事の淡々とした説明を受けて、タヌキイヌ議員はニヤニヤと笑う。
「…あぁそういえば朝議で見たか。なんたらと講釈を垂れていたようだが、昼寝の時間に丁度良かったぞ」
この男は、全て分かった上で嫌味を言っているのかもしれない。
(ムカつくな、こいつ)
「で、王はどこだ?俺は忙しい!こんな小僧に掛けている時間は無いんだ」
これにはハルが答えた。
「国王も皇太子も、外国訪問のため国を空けております」
「はあ?」
100キロ超えの巨漢に睨まれ、ハルも睨み返した。
「いつ帰ってくる?」
「二、三日中には」
「はっ。こんな時期に外国訪問なんて呑気なもんだな」
「蛇族の国へのご訪問です。国王と皇太子の外出については、先立って書類で通達しております」
この短時間で二度も認識不足を指摘されたというのに、タヌキイヌ議員は聞こえぬふりをしている。これには老執事も呆れ顔だ。何が『こんな時期』なのか突っ込むのすら面倒臭い。
「ご用件は執事のわたくしから国王へ申し伝えましょうか」
「結構だ。俺はもう行く」
突っ張った腹を揺すりながら、タヌキイヌ議員は執務室を出て行った。
「なんだあれ…」
「環境大臣のタヌキイヌ様です」
「環境大臣?あれでですか?」
「お恥ずかしい限りです」
「議員の選定は執事さんの担当じゃないでしょう?」
職務怠惰、横領な言葉遣い。王族への態度も酷い。
そんな議員をどうして議会に置いているのかと咎めるハルの視線に、老執事は深々と頭を下げた。
「恐らくですが、来月行う予定の祭祀について、何か急ぎで確認したいことでもあったのでしょう。大臣には、王が戻ってくるまでお待ち頂きましょう」
*
夕食を終え、ハルは塔の部屋へ戻ってきた。
ひとりで執務を行うのは、疲れる。のしかかる責任の重さと、自分の力が釣り合っていないのをひしひしと感じていた。ほとんどの書類は「要確認」として、書類の束を右から左へと寄せただけである。
ハルは、ベッドでごろごろしながらスマホを弄った。
新着メッセージは、無い。
「まだ着いてないのかな…」
今朝出発してから、半日近く経っている。
「難航してんのかな〜〜…怪我とかしてなきゃいいけど」
ユキや、王族騎士のリーが言っていたことを思い出す。
『蛇の獣人は気性が荒い。国の一部は砂漠化が進み、貧困と内紛が絶えない』
『蛇の獣人の国まで、直線距離で半日以上掛かります』
『道が通っておりませんで、多少難航する覚悟で我々も準備しております』
まさか、今日明日で何かあったと思いたくは無い。
「ちょっと連絡する時間くらいあるだろうによ〜…」
手持ち無沙汰に、ユキと交わした過去のトーク履歴を眺める。
祖国にいた頃は、まだ『どこにいる?』『もう着いた?』と、待ち合わせのやり取りなどを交わしていたが。
こっちに着いてからは一日中行動を共にしていたため、スマホ無かった。
「運命だの、一番大事だの言っときながら、コレだもんな〜…どこまで信じたらいいか、分かんねえ…」
(つまんねーことでケンカしちゃったし…)
(ケンカしたこと気にしてんの、おれだけなのかな)
(あいつ、基本的に何考えてるか分かんないし…)
(あー…ケンカなんてするんじゃなかった)
(後悔しても遅いか…)
(トークで謝ろうかな…いや、直接謝ったほうが…電話とかで…)
(…なんか、考えるの疲れてきた…)
ぽい、とスマホを投げて、枕に顔を埋めた。
(ベッドから、あいつの匂いがする…)
このベッドで、何度も愛された。
どこを、どうやって、触られたか。
愛を囁かれて、何度もイかされた。
ーーケンカも、した。
距離が遠い。
心の距離も、遠い。
それだけで、こんなにも不安になる。
(寂しい、寂しくない)
(好き、好きじゃない…)
行ったり来たりする感情。
揺れ動くこの気持ちは、きっと今だけ。
(早く帰ってきて、おれを抱きしめて、安心させてくれ)
その晩は、何も考えずに眠った。
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