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69.祭事場

「祭事場へ着きましたぞ」 翌日、午後1時頃。 青々と生い茂った太古の森。 その中をくり抜くように伐採された広場では、農工具を携えた何十名もの犬の獣人たちが慌ただしく行き来している。 ハルは老執事のセバスチャンの手を借りて馬車から降りると、大きく伸びをした。 大自然の爽やかで新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、少し気分が楽になった。 「ご足労おかけいたしました。お身体は大丈夫ですかな?」 「大丈夫…とは言えませんね」 城から馬車に乗り、ここに着くまでに数時間がかかった。 馬車一台がようやく通れるほどの幅しかない山道のせいで、ハルは若干の馬車酔いに加え、体のあちこちが痛んでいた。帰りも同じ道を通ると思うと、気が重かった ハルの姿に気づいた何人かの獣人たちが、慌てて駆け寄ってくる。 顔や服に、砂と泥が付いていた。身を粉にして、木を伐採し、草を毟り、祭事場を平らにする作業を、彼らが行ってくれているのだ。 「これは、皇太子妃様。お越しいただきましてありがとうございます!」 「いえ…そんな、祭事の大事な立ち合いに、自分のような新参者が来てしまって申し訳ありません。どうぞ、いろいろとご教授いただけますよう、お願いいたします」 ハルは「自分のような新参者がすみません」とはにかんだ。それは「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に当たる、いわゆる普遍的な日本人特有の行動であったがーー その腰の低い姿を見て、一般獣人国民は感激した。 「キラキラの王族オーラの皇太子妃が微笑みかけてくれた!」 「なんとたおやかで、思いやり深いお方なのか!」 「皇太子妃様!一生推します!」 「…?ありがとうございます」 獣人国民たちの歓迎ムードと、いまいちピンと来ていないハルとの温度差。老執事セバスチャンは『これもまたハル様の魅力のひとつですな…』と、涙を流しながら心の中で尊いボタンを押した。 「さ、ハル様、こちらへ」とセバスチャンが促した。 「皇太子妃様!またお会いしてください!」と握手を求める獣人たち。 それにハルはくすぐったいものを感じつつ、順番に握手を交わしていった。 一般獣人たちとの温かい交流の後。 ハルと老執事は、森を切り開いた丸太を避けながら、祭事場へと歩を進めた。 「我々犬の獣人は、この聖なる森に古来より定住しておりますが、それは精霊たちが我々に住む場所を許してくださっているからです。この祭事の目的は、森を守る水の精霊たちに感謝と服従の意を込めて、年に一度、今季実った穀物などを奉納し、来季の豊作を祈願することです」 「水の精霊ということは、他にも精霊がいるのですか?」 「八百万の神々がおわします。そこは、ハル様の故郷と同じと考えていただければよろしいかと。精霊ごとに祭祀を行うのは困難を極めますので、始祖である水の精霊、地の精霊、火の精霊にのみ、このような形で祭祀を行っておりまして、その他の精霊たちにはシャーマンたちが日々、祈祷を行っております」 「なるほど」と相槌を打ちながら、ハルは周囲を囲む山々に目を向けた。 山の反対側から、黒々とした煙が何本も上がっている。風に乗って、土砂が焼ける匂いや工業地帯の排気ガスの嫌な匂いが漂ってきた。 国際連合条約で強要されている地下資源の採掘、それがあの山の向こうで行われているのだろう。 「嫌な匂いですね…」 「ええ。我々の敏感な鼻も、ここに来るとほとんど効きません。採掘は年々大規模になり、代々守ってきた神聖な祭事場も、あと数年も持たずに侵されるでしょう」 「どうするんですか?」 「ハル様の国では、寺社が移転することを遷座と呼びますね。我々も同じです。かつて聖域が土砂に飲まれ、遷座を余儀なくされた例もございますが…しかし、人為的な理由での遷座は初めてのことです」 「そう!小癪だよなあ」 横から口を挟んできたのは、タヌキイヌ環境大臣である。 数人の獣人議員を率いて、勝ち気そうにしている姿は、まるで小さな舞台で自分が主役だと勘違いしている小物俳優のようだった。

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