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70.使命
「俺たちの方が生物学的に優れているんだぜ。足枷みてえな条約なんざ踏み倒しちまえばいいのさ」
タヌキイヌのその言葉は、自らの種族の優越性を誇示し、人間であるハルを見下しているのが明らかだった。その声には、条約を破棄することで世界協定を敵に回すリスクなど微塵も考えていない無謀さが滲んでいた。
取り巻きの議員たちも、タヌキイヌの言葉に追従して薄笑いを浮かべる。
「ほ、ほ、さすがタヌキイヌ殿!」
「まこと、まこと」
ワーウルフの国は、豊富な地下資源を抱える一方で、かつてその資源を巡る世界戦争の舞台となった過去を持つ。戦争の惨禍から国を守るため、「保護」を名目に設立されたのが現在の世界協定である。この条約により、ワーウルフの国は地下資源を採掘し、世界協定の各国へと供給する義務を負わされている。
だが、現実にはその対価が公正に還元されることはなく、ワーウルフの国は搾取され続けている。協定は表向き平等を謳いながら、実質的にはワーウルフの国を従属させる構造になっていたのだ。
資源を提供している側でありながら、世界協定内での発言力が乏しいワーウルフの国は、状況を変える手段をほとんど持っていない。それゆえ、議員たちの間では条約に対する不満が高まり、「いっそ協定を破棄して独自路線を歩むべきだ」という意見が噴出していた。しかし、協定を破棄すれば、世界協定を敵に回し、新たな軍事的脅威を招くリスクが高まるのも事実であった。
「おや!これはこれは、皇太子妃サマ。はるばるこんな所にまでお越しくださいまして…」
馬鹿にしたようなタヌキイヌの物言いに、ハルは「要件を済まそうか」と冷たく言い放った。
「はいはい、皇太子妃サマは性急ですなあ。それでは、この書類にサインを頂けますかな?」
タヌキイヌが差し出してきたのは、王族による現場視察完了と祭事承認許可の書類だった。 本当にそれだけ?と半信半疑なハルが老執事の顔色を伺うと、セバスチャンは静かにうなづいた。
ハルが受け取った書類に目を通していると、タヌキイヌの取り巻きじじい達がひそひそと声を交わし始めた。
「…連れの者の許可が無いと何もできないのかの」
その声は、まるで陰湿な陰謀を巡らせるかのように低く、耳障りな笑い声が混じっていた。
「このお方、耳と尻尾が見えないようですが…はてさて、一体どうしたことか」
「耳と尻尾の欠けといえば、ヒトに飼われた家畜か、愛玩動物か…」
「愛玩といえば、皆様ご存知かの?ヒトの中にもオメガという、堕ちたメスのような生き物がおるらしいの…」
その言葉が耳に入った瞬間、ハルの手が強張り、サインをしていた筆が止まった。
タヌキイヌは、取り巻きたちの無神経な発言を後ろで聞きながら、ニヤニヤと笑っている。
彼の目には、他者を見下す傲慢さが宿っていた。
ハルは、彼らの軽薄な態度に怒りがこみ上げてくるのを感じた。
殴りつけるようにサインを書き上げてから…
「確かに、条約には不公平な点が多々ある」
と言うと、その場は一瞬静まり返った。人間であるハルが世界条約の不備を認めたことに、タヌキイヌと取り巻きたちは目を見張る。
「ワーウルフの国が提供する地下資源に見合った対価が還元されていない現状、これは紛れもなく不当だ」
「おや?人間サマにしては珍しい。そこまで分かっていながら、条約を支持するつもりか?」
タヌキイヌが皮肉を込めて言い放つ。
「条約を破棄することは簡単だろう。しかし、その結果、世界協定はただ傍観するだろうか?彼らは『保護』の名のもとに、この国を再び戦場に変えるかもしれない」
ハルの声には冷静さがあったが、その奥に宿る怒りを抑え込んでいるのが明らかだった。
「国際社会の信頼を失えば、この国はどうなるのか。あんた方は、それを本当に考えたことがあるのか?」
議場の空気が変わった。タヌキイヌたちの表情には動揺が広がり始める。
「条約を見直すべきだという意見には、おれも賛成だ。協定内での発言力が乏しいのなら、搾取されている現状を世界に発信するしかない」
ハルの言葉は、一つひとつが重く響いた。
「議員であるあなた方がその役目を果たさず、ただ愚痴をこぼしているだけなら、誰がこの国を守る?王家か?皇太后妃に就任したばかりのおれか?一人で戦えと言うのか?」
タヌキイヌたちは言葉を失い、誰も反論することができなかった。
「おれはこの国を守るつもりだ。それがこの国に嫁いだ、おれの使命だから。でも、そのためには、あんた方の協力が必要不可欠なんだよ」
そう言い切ると、ハルは毅然とした態度でタヌキイヌを見据えた。その目には一切の迷いがなかった。
議場は静寂に包まれ、タヌキイヌたちの取り巻きはお互いを見て言葉を探しているようだった。
ハルは書類に署名を済ませると、それをタヌキイヌに差し出した。
「これで視察完了の手続きは済んだな。では、失礼」
ハルは立ち去り際、振り返ってタヌキイヌに言った。
「この国には、まだ立ち直る力がある。それを守るのがあんたたち議員の務めだろ?足を引っ張る暇があるなら、その方法を考えろ」
ハルがその場を去るとき、議員たちの間に残ったのは、自らの軽率さを思い知らされた後悔と、彼がただの若い皇太后妃ではないという事実だった。
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