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71.覚悟

祭事場を後にしたハルは、馬車に乗り込むと、少し疲れた様子で背もたれに体を預けた。心地よい風が吹き抜け、ほんのりと祭りの余韻を感じさせるが、すぐに日常の重さが戻ってくる。どこか寂しげに、けれど少し安堵した気持ちで窓の外を眺めていた。 「ハル様、お疲れのようですね」 運転席からセバスチャンが穏やかな声で話しかけてきた。老執事は馬車の揺れに合わせて手綱を握り、馬をゆっくりと進めていく。 「うん、ちょっと疲れたかな。でも、気分転換にはなったよ」 ハルは一瞬目を閉じ、窓の外の景色に心を委ねた。祭りの喧騒は遠ざかり、静かな道に変わりつつある。ほんの少しだけ、彼は外の世界と切り離されたように感じた。 「このまま城へ戻るのか?」 「はい、お時間はもうしばらく掛かりますが……それまで、ごゆっくりお休みください」 セバスチャンが静かに答えると、ハルは一度深く息を吸い込み、また窓の外に目を向けた。 「……外の空気が良かっただけに、城の中に戻るのは少し気が重いな」 「それはお気持ちお察ししますが、まだ午後のお役目はお済みでないでしょうから、少しだけ我慢なさってください」 セバスチャンの言葉に、ハルは少し苦笑しながらうなずく。 「そうだね、分かってる。でも、しばらくは のんびりしたい気分だな…」 その時、突然、馬車の後ろから大きな声が聞こえた。 「待て!俺も乗せていけ!」 驚いたハルは、無意識に窓から顔を出して声の主を探す。セバスチャンも馬を止め、振り返ると、砂煙を上げて誰かが走ってくるのが見えた。 「待て!俺も乗せていけ!」 セバスチャンが異変を察知し、「どう、どう」と馬を止める。 砂煙を上げて馬車が停車すると、タヌキイヌが腹を揺らしながら駆け寄ってきた。 「何か御用ですかね?」 ハルはキャビンの窓から顔を出し、嫌味たっぷりにタヌキイヌを見下ろした。 「お前に話があるんだ!」 「おれの方にはありませんけど」 「細けえこと言うな。いいから乗せろ!」 そう言うや否や、タヌキイヌは短い手足を無理やり伸ばし、キャビンに乗り込んできた。 百キロ前後はありそうな巨体が揺れる馬車に乗り込むと、車体がギシギシと音を立てて傾く。 よろけたハルは慌てて手すりに掴まり、乱暴な侵入者を鋭く睨みつけた。 「はあ、はあ…やっぱり王家御用達は座り心地が違うねぇ!」 タヌキイヌは懐から団扇を取り出し、汗ばんだ顔を忙しなく仰ぎ始める。 手綱を握るセバスチャンが、「どうなさいますか」と心配そうに伺った。 ハルは仕方ないといった表情で小さく頷く。セバスチャンはそれを見て手綱を振るい、馬を再び走らせた。 栗毛の牡馬は不満げに鼻を鳴らしながらも、荒れた砂利道を進み始める。 馬車のキャビンは大人四人がゆったり座れる広さだったが、タヌキイヌの巨体が空間を圧迫し、急に狭苦しくなった。しかも、加齢臭が鼻をつく。 「こういう機会でもなきゃ、お前とゆっくり話す時間が取れんからな」 「だから、俺はあんたと話したくないって言ってるでしょう?」 「かかか!嫌われたもんだなあ。まあ、仲良くいこうや」 そう言いながら、タヌキイヌが不意に腕を伸ばしてきた。 「触られる」と直感した瞬間、ハルは拳を掲げ、いつでも殴れるぞと牽制する。 タヌキイヌは「かかか!」と笑いながら手を引っ込めた。 このエロジジイ、タチが悪い。 ハルは心の中で毒づきながら、再びタヌキイヌを睨みつけた。 砂利道を揺れながら進む馬車の中、タヌキイヌは団扇で顔を仰ぎながら、いかにも興味ありげにハルを見た。 「お前、学生なんだってな。大学院ってとこで、ワーウルフの研究をしてたとか何とか聞いたぞ」 ハルは心底嫌そうにため息をつきながら応じた。 「教授がすごい方だっただけで、俺は単なる学生だよ」 「ふーん。だが、モリキ教授の門下生ってのは聞いたぞ。あの教授、国際学会じゃ有名らしいじゃねえか」 「確かに権威のある方だけど、それが何だよ?」 タヌキイヌはニヤリと笑い、意味ありげに頷いた。 「人脈ってやつだよ。お前、意外と面白いカード持ってるじゃねえか」 ハルは警戒心を隠そうともせず、タヌキイヌを睨みつけた。 「あんたが頼りたいなら、直接教授にでも話を持っていけばいいでしょう」 「まあまあ、そう怒るなよ」 タヌキイヌは落ち着き払った様子で言葉を続けた。 「お前、国を守りたいってさっき偉そうに言ってたじゃねえか。俺たち議員に協力しろとか何とかよ」 「……だから、それが?」 「お前みたいに知識もコネもあるやつが、この国のために動けば、状況も変わるかもしれねえだろ」 「まあ、そうだな」 「おいおい、真面目に取り合ってくれよ。俺らがクソみてえな議員だからって、この国のこと考えてねえわけじゃねえんだ」 ハルは小さく鼻で笑い、腕を組んで目を伏せた。 「じゃあ、少しはまともな行動を見せてもらえませんかね。口だけじゃなくて」 タヌキイヌの笑い声が止まり、彼の表情にほんの少しの真剣さが混じる。 「……お前、本気でこの国を守る気なんだな」 「当然」 ハルの声には迷いがなく、その言葉がタヌキイヌにも響いたのか、彼は一瞬言葉を探すように口を開いては閉じた。 馬車の窓から差し込む陽光が、揺れるキャビンの中で二人の間に複雑な影を落とした。 「……まあいい。今日はお前の覚悟を見た。それだけで十分だ」 タヌキイヌはそう言って、また団扇を忙しく仰ぎ始めたが、その目はどこか遠くを見つめていた。

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