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73.急流

(落ちる──!) 崖から百メートル以上の高さ。もし直下すれば、死は避けられない。 足がふわりと地面を離れ、虚空に投げ出される感覚がハルを包む。 (死ぬんだ……このまま。) 渓谷の底が視界に迫り、水面が迫ってくる。だがその瞬間── 「くっ……!」 タヌキイヌが苦悶の表情を浮かべた。その体が空中で一瞬、変化する。 「っ……!?」 ハルは息を飲む。タヌキイヌの両足が巨大な獣のそれへと変わり、空中で強く崖の岩を蹴った。その衝撃で二人の体は横方向へ浮き、わずかに落下地点をずらす。 「息を止めろ!」 タヌキイヌの叫びが耳をつんざいた瞬間、水面が近づき、二人は轟音と共に川へ落ちた。 『ざぶん!』 水柱が高く上がり、冷たい水の衝撃が全身を襲う。何とか死を免れたものの、川の激しい流れが二人を飲み込んだ。 激流が襲いかかる。 冷たい水が全身を叩きつける。 息ができない。 水中でハルは必死にもがいた。流される。足を動かしても、底が遠い。 (どこだ……!?) 目を凝らすと、沈みかけている大きな影が揺れていた。 「タヌキイヌ!」 声にならない叫びを上げ、ハルは震える腕を伸ばした。手がかりを探し、何度も空を掴むように水をかき分ける。やっとの思いでタヌキイヌの腕を掴んだ。 重い。 流れが強すぎる。 だが、手を離すわけにはいかない。 「起きろ! 泳いでくれ!」 タヌキイヌは薄く目を開け、かすかに腕を動かす。朦朧としながらも、浮力の助けを借りて体がわずかに動いた。 (自力で動いてる……助かるかもしれない!) ハルは足を懸命に動かし、川岸を目指した。体は悲鳴を上げる。だが、流れに飲まれるわけにはいかない。 (もう少しだ! あと少しで浅瀬だ!) 流れが弱くなる。水深が浅くなる。 足がようやく川底に着いた。 ハルはタヌキイヌの腕を引っ張った。巨体が水から持ち上がる。 「重い……くそっ!」 タヌキイヌも自力で膝を突き、ようやく浅瀬に這い上がった。ハルは残りの力を振り絞り、彼の体をさらに岸へと引きずった。 「ここまで……なんとか……!」 二人は泥だらけの岸に倒れ込んだ。荒い息が響く。 「ごほっ…!ごほっ、ごほっ…!」 「おい…っ!大丈夫か!」 ハルが声をかけると、タヌキイヌはわずかに目を開けた。 「……足が……」 その呟きに、ハルは慌てて彼の足元を見た。 泥水にまみれた足。破れたボトムスの裾。滲み出る赤い血。 「お前、崖を蹴った時……!」 獣化に変化した両足は、怪我をしていた、肉が裂け、血が流れていた。 ハルは震える手で彼の足を支えた。泥水を流し、裂けた傷を確認する。 「くそ……どうすれば……!」 冷たい風が肌を刺す。二人の濡れた体を、寒さが容赦なく襲ってきた。 (動かなきゃ。ここで止まってたら、死ぬ。) ハルは自分の上着を脱ぎ、手早く裂いて足に巻きつけた。 「痛いかもしれないけど、何もないよりましだろ」 「あぁ……」 ハルはかじかむ手でタヌキイヌの体を起こそうとした。まだ先は長い。

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