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76.毒蛇
それからどれほどの時間が経ったのか分からない。小屋の中は相変わらず湿っぽく、蒸し暑さがハルの意識をじわじわと蝕んでいた。
そんな中、不意に外から物音が聞こえた。木の葉や枝を踏む足音。複数人の気配がこちらに近付いてくる。やがて、乱雑にドアが開けられた。
「おやおや、起きてたのか? 随分と大人しいじゃねぇか」
現れたのは、のっぺりとした顔立ちの背の高い男だった。くたびれた軍服を着込み、脇には銃を下げている。その鋭い目と縦長の瞳孔が蛇を彷彿とさせる。
男は小屋に入らず、入り口付近で立ち止まる。その鋭い視線が、ハルの背筋に冷たい汗を浮かばせた。
――蛇の獣人。
ハルの脳裏に、ユキの言葉が蘇る。
『ここ数ヶ月、保護区の国境付近で蛇の獣人が動いてる。非武装らしいけど、彼らの目的は不明だ』
だが今、目の前にいる彼らは、明らかに武装している。
リーダー格の男が、気だるそうに口を開いた。
「状況を教えてやるよ。俺たちは、谷底で怪我して倒れてたお前らを"保護"してやった――なんてな。ジョークだ」
外から品のない笑い声が響く。包囲され、監視されている。その事実がハルの神経をさらに逆撫でした。
「崖から落ちてきたお前らを見て、下っ端が慌てて麻酔銃を撃ちやがった。ま、結果的に"価値のある人質"が手に入ったんだから文句はないがな」
リーダー格の男は、話しながらクチャクチャと顎を動かしていた。ハルはガムだと思ったが、男は干し肉を咀嚼しているのだった。
「お前と環境大臣を捕まえたって報告したら、雇い主がえらく喜んでたぜ。役に立たないゴミかと思ったが、意外と拾い物だったみたいだ」
そこで、男はハルの反応を探るように視線を投げかけた。
「さて……お前の情報、そろそろ吐いてもらうぞ」
小屋の外から、ガチャリ、と銃のボルトを引く音が聞こえた。リーダーは、ハルの微かな反応を見逃さなかったように口角を上げる。
「分かるか? 今の音は銃だ。今すぐ撃つつもりはないが、役に立たないと判断したら的にするかもな」
威圧的な態度に、ハルの体が反射的に震える。それを隠すように、冷静を装ってリーダーを睨みつけた。
リーダーは腕を組み、自信たっぷりに言う。
「お前が誰かは、大体の見当がついている。ワーウルフの王子と結婚した人間ってのは、お前のことだろう?」
その言葉に、ハルの胸が一瞬強く脈打つ。自分が皇太子妃であることなど、既に広く知れ渡っている――それでも、この状況で明かすわけにはいかない。
「ガァン!」
小屋の壁が外から蹴られる音が響いた。ハルは驚きのあまり反応しそうになったが、必死に耐える。外の蛇獣人たちはハルを嘲笑い、言葉で攻撃を仕掛けてきた。
「お姫様にしては随分と貧相だな!」
「せっかくだ、もっと泣き声を聞かせてくれよ」
ハルは歯を食いしばる。心の中で繰り返す。
――ユキが来る。必ず助けに来てくれる。
だが、その信念さえ、この状況では苦痛のように感じられる。
リーダーが続けた。
「どうだ? 皇太子妃ってのはお前だろう? 嘘をついても無駄だぜ」
ハルは冷静さを装いながら、状況を必死に考えた。
(奴らの話からすると、この蛇獣人たちは命令を受けて動いている)
(ならば俺たちの処遇も雇い主が決めるはず。時間を稼げば助けが来る可能性が高まる…)
ハルは考えをまとめ、ゆっくりと答えた。
「俺はただの学生だ。大学の依頼で土壌調査をしていた。環境大臣には国を案内してもらっていたーーそれだけだ」
「学生ねぇ。それにしちゃ、いい身なりだったな。それに、随分と派手な馬車だった」
リーダーが冷たく笑う。
「谷底で砕けていた馬車を調べた。なかなかに金の掛かった代物だったな。お前が学生で、環境大臣と馬車に乗っていたのなら、御者がいるはずだろう?どこへ消えた?」
矢のように、高圧的な追及が降ってくる。
恐怖が胸の奥に渦巻く中、ハルは必死に自分を奮い立たせた。震えを見せれば敵の嘲笑を助長するだけだ――
(冷静になれ……恐れている暇はない。俺が怯えれば怯えるほど、こいつらのペースになるだけだ)
深呼吸をひとつ。ハルは心の中で呟いた。
――自分にできることをするしかない。
敵が言葉を投げかけてくるたびに、ハルは自分の思考を巡らせた。彼らの言葉には情報が混じっている。話すたび、彼らの正体が少しずつ見えてくる。
「俺に質問する前に教えろ。お前らの目的は何だ?」
その問いに、男は嘲笑を浮かべた。
「目的だぁ?俺たちは、奪えるものを奪い、壊せるものを壊す。それだけだよ。」
「奪って、壊す……それでお前たちに何の得がある?」
ハルは冷静に返した。その挑発的ともいえる態度が意外だったのか、男は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに口角を上げて笑みを浮かべた。
「得だって?俺たちはな、平和ボケした奴らに世界の厳しさを教えてやってるだけさ」
ハルはその言葉を咀嚼しながら、さらに一歩踏み込んだ。
「それは復讐のためか?それとも何か具体的な狙いがある?例えば、資源とか……」
核心に触れそうな問いを投げかけると、男の目が一瞬鋭く光った。その小さな変化をハルは見逃さなかった。
「……資源、ねえ……」
男はわざと勿体つけるように言葉を引き延ばした。
「どうかな。俺たちはただ、この土地で『偶然』面白いものを見つけただけさ」
彼がそう言い終えると同時に漏れた、薄ら笑い。その軽薄さに、ハルは引っかかりを覚えた。
(偶然……だと?)
「ま、俺たちにはそんなもの、必要ないかもな」
男は飄々とした態度を崩さないまま続けたが、その曖昧な言い回しの裏に、何か隠された意図を感じずにはいられなかった。
「まぁ、一つ教えてやるとすればな……お前らが守ろうとしてるその土地も、資源も、秩序も、俺たちには関係ねえってことだ。俺たちは俺たちのやり方で、好きなように生きるだけだ」
腕を組んで乾いた干し肉を無造作に咀嚼するリーダー。その姿からは、自分の支配力と自由に対する圧倒的な確信が滲み出ていた。口を開くたびに、自分の知恵や強さを誇示したがっているようだった。
「つまり――」
「おい」
ハルはリーダーからさらに詳細な情報を引き出そうとしたが、言葉を遮られた。
リーダーはじっとハルを見下ろし、その視線には好奇心と猜疑心が入り混じっている。
「お前、本当にただの学生か?」
リーダーは薄ら笑いを浮かべていた。
ハルは動揺を押し殺し、冷静を装って答える。
「そうだ。環境学を専攻している学生だ」
リーダーの薄笑いがさらに深まった。
「学生にしては妙に落ち着いてるじゃねえか。普通の奴なら、もう泣き叫んでるだろうよ」
「…………」
「……まぁいい。お前がただの学生ならそれなりに扱ってやるさ。だが、皇太子妃なら――面白いことになりそうだな」
リーダーはハルを値踏みするような視線で見下ろし、唇の端を歪めて笑った。その声には単なる冷笑だけではなく、どこか歪んだ好奇心が滲んでいた。その視線が一瞬だけハルの首筋をなぞり、氷のような冷たさがハルの背筋を走る。
「お前のような生意気なチビが、一体どんな“手”を使ってワーウルフの王子様を射止めたんだろうな?」
リーダーはハルの反応を楽しむように、わざとゆっくりと口角を歪めた。そして一歩近づき、声を低めて続ける。
「それに――」
ハルの耳元に顔を寄せ、挑発するような囁き声で続けた。
「“皇太子妃”が、俺たち蛇獣人にどこまで耐えられるか……興味あるだろ?」
「……っ!」
ハルは反射的に蛇獣人を殴ろうとしたが、手枷に阻まれ、拳は空を切った。無機質な鎖の音が冷たく響く。
蛇獣人は一瞬の動きでそれを避け、余裕たっぷりに笑みを浮かべた。素人の拳など、軍人の鋭い反射神経には到底及ばない。
「ははは……」
悔しさと羞恥で顔を紅潮させたハルが睨みつける中、リーダーは軽く嘲笑い、背を向けた。
「っ待て! 環境大臣は…タヌキイヌは無事か?」
その言葉に、リーダーは振り返らず、気怠げに応じた。
「……麻酔銃が効きすぎたのか、まだおねんね中さ。まぁ、狸寝入りかもしれねえがな」
そして立ち去り際に、部下たちに命じた。
「こいつをしっかり見張っておけ。妙な動きをしたらすぐに知らせろ」
リーダーはハルを一瞥し、余裕に満ちた薄ら笑いを浮かべながら、その場を後にした。
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