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79.発情
タヌキイヌは小屋の中で声を押し殺し、慎重に話す。
「ただ、あいつらはただの獣人じゃない。逃げるのは相当困難だぞ。なにせ、蛇と同等かそれ以上の能力を持ってる。暗闇でも、あの赤外線感知能力で俺たちの位置を完全に把握される。嗅覚も鋭い。どこへ隠れても、すぐに見つかるだろう。」
ハルはため息をついて壁に寄りかかった。手枷、足枷、そして繋がった鎖が重々しく、じゃらりと鳴った。
「やはり、物理的に逃げるのは難しいか……」
タヌキイヌは頷く。
「その通りだ。でも、だからこそ、こっちにはもう一つの方法を考えなきゃならない」
「何か策があるのか?」
ハルは目を細め、タヌキイヌの言葉に引き寄せられるように聞き入る。
「力では敵わないが、俺たちは重要な人質だ。命までは取られないというのを逆手に取ってーー」
タヌキイヌが続けて話そうとした時、「それ」は始まった。
「っ………!!」
ハルは息が荒くなり、急に体温が上昇したように感じた。心臓の鼓動が速く、耳の奥で血流の音が響いている。微かな汗が額ににじみ、肌がヒリヒリと熱を持ち始める。
「…ぁ、ぅぅ……っ!」
ハルは軽く体を震わせながら、必死に呼吸を整えようとする。しかし、次第に胸の中で何かが溢れ出し、抑えきれない欲望がじわじわと湧き上がってくる。それは、これまで何度も経験したことのある発情期の兆し。
しかし、これまでは一人で過ごしてきた発情期とは違う――今回は、誰かが近くにいる。
「……どうして、こんな時に。」
ハルは小さく呟き、冷静を保とうとしたが、体の中で次第に強くなっていく反応に対して、焦りと困惑が交錯する。体が反応するのを抑えられず、微かな吐息と共に、フェロモンが漏れ出していった。
その時、タヌキイヌが不安そうにハルを見つめた。彼の目が、ハルの異常な様子を見逃すはずがなかった。
「小僧、どうした? 様子が変だぞ」
タヌキイヌは、困惑と心配の入り混じった声で問いかける。
「……っ。」
ハルは目を伏せ、タヌキイヌの視線を避ける。顔が赤くなり、さらに体内から湧き上がる欲望に抗うことができず、どうしようもない感覚に襲われる。
(まさかこんな場所で起こるなんて……)
(誰かがいる時に発情期に入ったのは初めてだ……)
ハルは自嘲気味に笑いながら言う。これまで一人で発情期を乗り越えてきた経験があるが、今はそのすべてが無意味に感じる。あまりに無防備な状態で、ただでさえ混乱している自分が嫌になる。
体が震え、足元がふらつく。発情期のフェロモンが漏れ出し、もはやそれを抑えることができない。ハルは手を震わせて、必死に自分を押さえ込もうとするが、体の反応はますます強くなり、快感と欲望が頭を支配し始める。
「この甘い匂いは何だ?まさか……」
「っ…、タヌキイヌ。もしかして、既婚者か?」
「ああ、そうだが……」
(よかった…それなら、タヌキイヌは大丈夫だ)
パートナーがいるアルファは、自分のパートナー以外の発情フェロモンに反応しない。自分のフェロモンが無闇にタヌキイヌを誘ってしまうことは免れたと知って、ハルは安堵した。
(だけど、外にいる連中は?)
タヌキイヌがハルに近づき、心配そうに手を伸ばす。
「熱でもあるのか?無理も無い。少し休んで……」
「触るな!!!」
「………!?」
"安全"なはずのタヌキイヌが手を伸ばしたのを、混乱したハルは反射的に払い除けた。これまではひとりで乗り越えてきたが、発情期にある自分のそばに、誰かがいることに耐えられない。
「あ、違う、すまない……悪い、すぐに治まる……ちょっと待って……」
ハルは震える手で額を押さえながら必死に言い訳を口にしたが、声はかすれて思うように出てこない。
しかし、彼の体は既に反応しており、治まるどころかその欲望はますます強くなっていく。全身が熱くなり、抑えきれない衝動が次第に彼を支配し始める。
「嫌だ、嫌だ……来るな!」
急激な変化に、頭の中がぐちゃぐちゃになる。逃げたい気持ちと、抑えたい気持ちが交錯する中、自分の身体がどうしようもなくなっていく。
「違う……違う、違う!」
ハルは自分を抑えきれない怒りと恐怖から、タヌキイヌの手を振り払おうとするが、力が抜けてうまくいかない。
「お前まさか、発情期か!?なんだってこのタイミングで……!!この馬鹿が!!」
「う、るせえ……!!おれだって、抑えられるもんなら抑えてぇよ……!!っ…!」
タヌキイヌが、押し殺した声で罵倒してくる。それに、ハルは悔しくて涙が出てくる。自分の意思ではどうしようもない生理現象なのに、生粋の雄であるタヌキイヌにはその事が想像できないのだ。
叫ぶように言ったが、顔は赤く、手は震えている。
タヌキイヌは焦りながらも、どうすればよいか分からず立ち尽くす。ただその苦しみに寄り添おうとするが、その度にハルが震えて逃げようとするのを見て、何もできない自分に苛立ちを覚えた。
「わかる、わかるが……少し落ち着け」
宥めようとするタヌキイヌ。
しかし、ハルの恐怖と混乱は収まらない。どんどん強くなっていく反応とともに、発情期が支配していく。彼の体が動かない。すべてが止まってしまったように感じる。
陰部が腫れて、じくじくと濡れたように熱を持ってきた。体が熱い。
「っ、、………!」
小枝や枯れ葉が敷き詰められた朽ちた床に、ハルは倒れ込むように横になった。身体の熱を逃す場が欲しくて、身体と、床を引っ掻く。しかし、手枷と足枷に繋がれた鎖が、無慈悲にじゃらじゃらと鳴るだけだった。
「おい、何をしている!?」
その時、小屋の外にいた蛇獣人が異変に気付いた。
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