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81.黎明

冷たい汗と恐怖に震えながらも、ハルはかすかな意識を保とうと必死に目を開ける。圧倒的な力に抗うことすらできなかった自分を恥じ、無力感が胸を締め付ける。しかし、その時、突然、遠くから響く深く澄んだ音が空を切り裂いた。 ワオォーーー……ン その音は、かつて聞いたことのある遠吠え。狼の遠吠えだ。 「……!」 ハルはその音に引き寄せられ、目を見開いた。朝焼けの空はオレンジに染まっていた。まるで太陽がその音に応え、燃えるような眩しい光を放っているかのように。 空気を震わせるように響き渡るその声は、夜の闇と絶望を切り裂いて、希望の到来を告げていた。 「……来てくれた…」 その一言は、涙と共にこぼれ落ちた。 「何だ……!?」 リーダーは突然の狼の遠吠えに狼狽えたようだった。 ハルを締め付けていた蛇の力が、ふっと弱まる。その隙に、ハルは震える体から力を振り絞り、思い切り叫んだ。 「ユキ!おれはここだ!」 その声は、朝焼けに染まるオレンジの空に吸い込まれた。ハルは喉が枯れるのも構わず、再び声を絞り出す。 「助けて……!!」 その声は、抑えきれない恐怖と一縷の希望を混ぜ合わせたように震えていた。 かつての自分なら、きっとただ声にならない助けを願うだけだっただろう。 だが今、彼はユキを信じ、その名を呼ぶことができた。 その声は風に乗り、かすかに遠くへ届いていく――まるで彼の心そのものが誰かに触れてほしいと祈るように。 「ガウ!ガウ!」 ハルの声を受けて、朝焼けの空の下、巨大な狼たちが風のように駆け付けた。王族騎士のエンブレムが描かれた旗が翻る。黒や灰色の毛並みが光を受けて輝き、鋭い眼光が蛇獣人の兵士たちを射抜く。 「ガウゥッ!」 低く唸りながら、ワーウルフたちは蛇獣人に向かって猛進する。銃声が響き、弾丸が飛び交うが、ワーウルフたちの動きは尋常ではない。反射神経と瞬時の判断力で弾丸の軌道を読み、流れるように動いてすべてをかわしていく。 その巨大からは想像もできないようなスピードで機敏に立ち回り、鋭い牙で蛇獣人の兵士を引き倒し、鋭い爪で鋼鉄の銃を打ちのめす。狼たちの奇襲は、蛇獣人たちの間にパニックと恐怖の波を引き起こしていた。 「隊列を組め!」 蛇獣人のリーダーが叫ぶが、その声も虚しい。ワーウルフの圧倒的な力に押し負け、テロリストたちは次々と倒されていく。 その中、一人の蛇獣人が爆弾を投げ込む。破裂音とともに地面が揺れ、土煙が舞い上がる。爆風や破片を避けて一部の狼たちが距離を取るが、ワーウルフたちの勢いは止まらない。 「ハァッ!」 一頭の蛇獣人が銃を放り出し、大蛇の姿に変身する。巨大な体がうねり、鋭い牙を剥き出しにしてワーウルフに立ち向かう。それを合図にするかのようにテロリストたちは次々と大蛇に変化し、ワーウルフとぶつかり合った。 そのとき―― 蛇獣人のリーダーが後退しつつ指揮を取ろうとした瞬間、一際体格のいい一頭のワーウルフが現れた。朝焼けに照らされて輝く雄々しいたてがみと、大地を踏み締める力強い四肢には、燃え盛るような怒りが宿っていた。 ユキ――ワーウルフの王子。 その金色の瞳が、蛇獣人のリーダーを鋭く捉えた。背後には、風に揺れる王家の旗。それはユキがただの兵士や騎士ではなく、王族の血を引く者であることを如実に示していた。 リーダーはその威圧感に息を呑むが、すぐに気を取り直し、着剣した銃を構えた。 「なるほど……こいつを取り返しに来たって訳か」 リーダーは鋭い目でユキを睨みつけたまま、蛇の尾で捉えているハルを締め上げた。 「あ、うぅ……!!」 苦しさとともに、ハルが呻く。その瞬間、ユキが低い唸り声を上げて一歩踏み出した。 「そこまでだ!こいつの命が惜しかったら……」 リーダーの言葉には挑発的な響きがあるが、その顔色はすでに少し青ざめている。何故なら、彼の部下はほぼ全て制圧されていたからだ。リーダーは、次は自分だという予感があったが、ここで引く訳には行かなかった。 獣型のユキは唸り声を上げて、また一歩踏み出した。片耳の、ハルとの結婚指輪をイヤーカフにしたものがきらりと光った。 リーダーは悔しげに、奥歯をギリギリと噛んだ。しかしすぐに気を取り直して尾を振り上げると、ハルを突き飛ばすように解放した。 「うるぁぁあ!」 リーダーは雄叫びを上げ、発砲しながら走り出した。その体はみるみる膨れ上がり、白い大蛇に変化する。それとほぼ同時にユキも地面を蹴り、烈風のようにリーダーへ突進した。 リーダーは白蛇に変化しきる直前、所持していた銃を投げつけた。ユキは俊敏な動作でそれを交わし、ひるむことなく飛んだ。鎌首をもたげてユキの喉笛に食い付こうとした白蛇だったが、ユキは瞬時に身をしならせてかわし、牙で大蛇の鱗を切り裂いた。その動きは鋭く、的確で、一切の無駄がなかった。 ユキは大地を踏みしめて体勢を整え、次は大蛇の尾を狙う。リーダーは長い尾をユキの体に巻きつけようとするが、ユキはすかさず後退し、逆に爪で蛇の頭部を掠める。血しぶきが宙を舞い、大蛇が怒りの咆哮を上げた。 両者の動きは荒々しくも鋭い。地面は抉れ、土埃が舞い上がる。二匹の激しい戦闘で周囲の木々は揺れ、火の手が燻る中、両者は一歩も引くことなく組み合った。 決定的な瞬間は突然訪れた。ユキが鋭い爪を振り下ろし、大蛇の頭部に深く傷を与えると、リーダーは力尽きるように倒れ込んだ。その隙を逃さず、王族騎士たちが大蛇を拘束する。 それが、戦いの終焉だった。 荒い息を吐きながら、ユキは巨体の狼の姿で静かに立ち尽くしていた。戦場跡に燻る炎と煙が、彼の勇気と行動力を称えているかのようだった。 ユキは大きく一息つくと、ゆっくりと人間の姿に戻った。裸になった彼に王族騎士たちがすかさずマントをかけ、その体を覆う。 「ハル!」 炎の燃え残る森の中、ユキは急ぎハルの元へ向かった。そこでは、王族騎士隊長のリーがハルを支えながら応急処置を施していた。 ユキはすぐにハルを抱き上げ、優しくその身体を支えた。 朦朧とした意識の中、ハルはゆっくりと目を開けた。 「ユキ……来てくれたのか……」 その声は弱々しく、縋るようだった。ユキは短く笑みを浮かべ、安心させるように穏やかに答える。 「間に合ったかな?」 「まあ……何とかな……」 余裕を含んだ返答に、ハルは微笑を浮かべつつ皮肉っぽく返した。しかし、待ち望んだパートナーの腕に抱かれると、ハルの身体は熱に浮かされて強く反応し始めた。 「っぁ、……く、う……!!」 ユキはすぐに異変に気づき、心配そうに顔を覗き込んだ。 「ハル……辛かっただろう。もう大丈夫だ。」 だが、オメガ特有のフェロモンが周囲に漂い、ユキ自身も明らかにその影響を受けている。 「早く……早く……!」 荒い息をつきながら、ハルは震える手で首元のカーラーを外そうとしたが、上手くいかない。その様子を見たユキが手を伸ばし、代わりに外そうとする。 ユキの指先がハルの首元に触れると、その瞬間、ハルはびくりと震え、声を漏らした。ハルの股間が濡れ、フェロモンを含んだ甘い匂いがさらに強くなる。 「ひあっ……!……ン、ぅぅ……っ!」 ユキは困惑したように視線を逸らしながら、小声でたしなめる。 「ちょっと……そんな声、みんなの前で出さないで。」 「ァ……ッ、だ、だって………!」 カシャン――。 カーラーが外れると同時に、ハルの目から大粒の涙が溢れた。彼は震える手でユキにしがみつき、自分のうなじを押し付けるように顔を埋める。 発情期のオメガにとって、うなじを噛まれることは正式な番契約を意味する。ハルの切実な願いは、もはやその行為を拒める余地をユキに与えなかった。 「早く……噛んで……! 噛んで……!!」 その切ない声に、ユキはたぎる思いを静めるかのように深く息を吸い込み、一瞬目を閉じた後、穏やかに答えた。 「本当はもっと特別な場所でしたかったけど……」 「そんなのいいからっ……!頼む、早く…!」 「本当にいいんだね?」 ハルは切実に頷いた。 「分かった……」 ユキの手が、ハルの後れ毛を優しくかき分ける。晒されたうなじは透き通るほど白く、守り続けられてきたことがよく分かるほど、新雪のようにまっさらだった。産毛の光る柔らかな肌に、ユキの唇がそっと触れる。 「んあっ!!」 誰にも明け渡したことのない秘部。守り続けてきた場所ーー そこに熱い接吻をされたハルは過敏に反応し、「噛まれる」痛みへの恐れと期待にうち震え、ユキにしがみついた。 「はーっ…♡はーっ…♡」 初めて刻まれる、一生の所有痕。それは運命に導かれたふたりの究極の愛の形だ。 「愛してる、ハル。一生、俺のものだ」 その言葉を告げると同時に、ユキはためらいなくハルのうなじに牙を立てたーー ユキの牙が深くハルのうなじに沈み込んだ瞬間、彼の身体が小さく震え、そして力なく脱力した。 「ハル……?」 返事はない。ユキは慌てて腕の中の身体を抱き直した。ハルの頬は熱を帯び、荒い呼吸だけが静かに聞こえる。 「気を失ったのか……」 ユキは彼をそっと抱え上げた。その細い身体は驚くほど軽い。どれだけの苦痛に耐え、どれほどの緊張を抱えていたのか。 その時、周囲のざわめきが収まり、重厚な足音が響いた。 「ユキ」 低く威厳のある声が耳に届き、ユキは振り返る。 そこに立っていたのは、ワーウルフの王――ユキの父だった。戦装束のマントを纏い、戦場を統べる王の眼差しは厳しさを湛えていたが、どこか静かな温かみも含んでいた。 「父上……」 ユキはハルを抱きかかえたまま、一歩踏み出した。その様子を見た王は、ゆっくりと息を吐き、静かに告げる。 「後のことは私に任せて、お前たちは先に行きなさい」 ユキは眉をひそめた。 「しかし、父上……まだやるべきことが……!」 戦場跡には、捕虜となった蛇獣人たちが拘束されている。彼らから反乱の意図を探ることは、王族としてユキが果たすべき責務のひとつだった。しかし―― 「いいから行け」 ワーウルフの王は、ユキの目をまっすぐに見据えた。 「そんな様子のハル君がここにいては、士気が乱れる」 ユキは思わず唇を噛んだ。 王族騎士たちは全員アルファであり、発情期に入ったオメガの存在は彼らの理性を無意識のうちに揺るがす。さらに、番いとなったばかりのユキ自身もまた、本能の衝動を完全に抑えられるとは限らない。 ユキはわずかに目を伏せた。 ワーウルフの王の意図は明らかだった。ただハルの状態を慮っただけではない。ユキ自身の負担を減らし、ふたりが静かに過ごせる時間を与えようとしているのだ。 そして――何よりも、王として、この場にいる兵たちのことも考えていた。 「王族騎士としての自制心はあるつもりだが、極限の戦場を生き抜いた直後では、ほんのわずかな気の緩みが命取りになりかねない」 ワーウルフの王は静かに言い、惨状に目を向けた。 「ここからが本当の戦だ。蛇獣人どもが何を企てていたのか、一刻も早く探らねばならん。そのためにも、お前はここを離れろ」 ユキはしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。 「……ありがとうございます、父上」 王はわずかに目を細め、無言のままうなずく。それ以上の言葉は必要なかった。 ユキはハルを抱きしめ直し、踵を返す。 「行こう、ハル」 その声は、まるで彼自身に言い聞かせるかのように低く、強く響いた。 ユキの背中を見送りながら、ワーウルフの王は静かに息をついた。 「……良い番いになれ」 その呟きは、誰にも聞かれることなく、戦場の風に消えていった―― ーー気を失ってぐったりしたハルを抱えて、ユキは馬を狩る。行き先は…………

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