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90.答え合わせ

玉座の間。 そこには、かつて森で返り血を浴びながら咆哮していた巨大な狼の面影を消し、冷徹なまでに理知的な、一国の主としての義父が座していた。 「父上、ただいま戻りました」 ユキの声に、王は手元の報告書からゆっくりと顔を上げた。 ハルはユキと肩を並べ、深く礼を尽くす。 己の命を救ってくれた最強のワーウルフであり、この国の頂点。 その男が放つ圧倒的な威圧感に、ハルは改めて背筋が伸びる思いがした。 「……身体は、もう良いのか」 短く、けれどそこには確かな気遣いがあった。 ハルは顔を上げ、王の視線を真っ直ぐに受け止めて頷く。 「はい。おかげさまで、もう大丈夫です」 王はわずかに目を細め、満足げに頷いた。 その沈黙を破るように、部屋の隅から聞き覚えのある、図太い声が響く。 「おぉ、小僧! 死にぞこないおって」 不遜な呼び声に視線を向ければ、そこには全身を包帯でぐるぐる巻きにし、椅子にふんぞり返ったタヌキイヌ大臣がいた。 不敵に笑う大臣の顔には、生々しい打撲痕が幾重にも残っている。 崖から落ちた時、そして蛇獣人に捕らえられていた時。身を挺して国家とハルを守り抜いてくれた、勲章のような傷だ。 ハルの中に嫌悪感など微塵もなかった。 共に地獄を生き抜いた戦友への深い敬意を込め、ハルは真っ直ぐに歩み寄る。 「タヌキイヌ! その怪我……! 本当に、ありがとう」 「ふん、よせやい。俺は環境大臣だ。我が国の資源も、我が国の『宝』も、蛇の阿呆どもに渡すわけにはいかねえからな」 タヌキイヌは鼻を鳴らして、誇らしげに応えた。 だが、その殊勝な態度は長くは続かない。 彼はすぐさまニヤリと口角を歪めると、ハルの顔をじろじろと眺め回した。 「ところで……そのツラを見れば、王子にたっぷり可愛がられたようだな。精が出るこった」 「減らず口は相変わらずだな。蛇獣人たちに舌を抜いてもらうべきだったか」 低い温度で応えたのは、ユキだった。 一瞬、これまでのタヌキイヌの無礼をすべて許しそうになったハルだったが、危ないところだった。 (やるときはやるが、相変わらず中身はクズだな) ハルは氷河の風のような冷たい視線を浴びせたが、タヌキイヌは堪える様子もなく「げへへ」と下卑た笑い声を上げただけだった。 王は、そんな戦友たちの再会を静かに、そして微笑ましく見守ると、傍らに控えていた騎士団長リーに短く合図を送った。 「捕らえた蛇獣人のリーダーの自白が取れました。国境付近の金鉱脈を独占し、我が国の領土を削り取る計画……ユキ殿下たちを砂漠の国で足止めしたのは、すべてはこのテロのための時間稼ぎだったようです」 リーの報告を受けて、ユキが続ける。 「向こうで共に現王と会見してわかったことだけど、あの王は、まだ十に満たぬ幼子だった。俺たちの前で終始震え、視線を合わせるのさえ怯えていた」 ユキが苦々しく口火を切ると、隣に立つ王が重々しく頷く。 「左様だ。先代の急逝により、あのような子供が玉座に座らされているに過ぎん。実際に国を動かしているのは、バザール議員と宰相イシュトーン。あの男たちが幼い王に『ワーウルフが国境を侵そうとしている』と偽の脅威を吹き込み、我が国を敵に仕立て上げたのだ」 それを受けて、ユキが言葉を続けた。 「その裏で、親善大使として招かれた父上と俺を、あの豪華なゲストハウスに事実上『監禁』したわけだ。『国境付近で嵐が発生し、飛行ルートが危険だ』などと言葉巧みに足止めし、挙句には『通信塔の故障で外部との連絡が取れない』。最強の軍事力を持つ我ら親子を、同時に心臓部から遠ざけるための、連中の捏造だった」 ユキの言葉に、ハルは背筋が凍る思いがした。二人が揃って異国にいたあの時間は、国が最も手薄になる瞬間を狙われたものだったのだ。 だが、話はそれだけでは終わらない。 「当初の奴らの計画には、ハルくんたちを攫うことまでは含まれていなかったはずだ。不運にもハルくんたちが崖から転落し、河に流されるという『事故』が起きた。それを哨戒していたバザールの息のかかった兵が見つけ、これ幸いと『外交の切り札』として利用しようとしたのだろう」 すべては、腐りきった大人たちの権謀術数と、最悪の偶然が重なった悲劇だった。 ハルは、自分が人質にされていたあの暗い牢獄や、蛇獣人たちの冷たい視線を思い出した。彼らもまた、宰相イシュトーンや、バザールたちの嘘に踊らされていた被害者だったのかもしれない。 「ハルとタヌキイヌが行方不明だという報せが入った瞬間、すべてが罠だと悟った…ユキ、あのときのお前の顔は、今も忘れん」 王の視線を受け、ユキはハルの肩を抱く手に力を込めた。 嵐だろうが故障だろうが関係ない。幼い王を利用して世界を歪めようとしたバザールたちの悪意から、愛する番を救い出すためだけに。ユキは砂漠を越え、森を走り抜け、執念だけでハルの元へ駆け抜けたのだ。 ハルは、隣に立つユキの逞しい横顔を見つめた。 自分を助けに来てくれた時の、泥と血にまみれたユキの姿。あの再会は、いくつもの絶望的な偶然を、ユキの愛がねじ伏せて手繰り寄せた奇跡だったのだ。 「……ユキ、ありがとう」 ハルが小さく呟くと、ユキはその大きな手で、ハルの手を静かに、けれど壊れ物を扱うように力強く包み込んだ。 「彼らのしたことは、国際会議で弾劾されるだろう。金鉱脈も世界協定の監視下に置かれる。しばらくは騒がしくなるが、奴らの思い通りにはさせん」 王の力強い言葉に、リーが深く頷く。 難しい政治の話。けれど、ハルは直感した。もう、自分たちを邪魔する者はいないのだと。 (…よかった。本当に、終わったんだな) 安堵が胸に広がった瞬間。 急激に視界が揺れた。 「ハル!?」 ユキが咄嗟に抱きとめ、椅子に座らせた。 一週間ヒートの熱に浮かされ、そのまま緊張の糸が切れたせいだろうか。 ハルはユキの胸に顔を埋めたまま、力なく笑った。 「ごめん、ちょっと疲れが出たみたいで……」 「セバスチャン!すぐに部屋に運ぶ、医官を呼べ!」 慌てるユキの背後で、椅子に座ったままのタヌキイヌ大臣が、ふんふんと鼻を動かした。 そして、エロジジイらしい、けれどどこか優しいニヤリとした笑みを浮かべる。 「おい、王子。慌てるこたぁねえよ。その小僧から、なんだか『出来たて』の匂いがしねえか?」 「え……?」 「獣の鼻は誤魔化せねえ…おめでとうさん。あとは二人でゆっくりしな」 タヌキイヌの言葉の意味を理解したのか、ユキのモフモフ尻尾が、即座にボフン、と太くなる。 ハルは何が何だか分からないまま、ユキに抱き上げられ、温かな自室へと運ばれていった。 *** 夜、静まり返った部屋。 柔らかなベッドの上で、ハルは街で買ったばかりの青いビーズのブレスレットを眺めていた。 ユキの手首にも、お揃いの青が光っている。 「……ユキ」 「ん?」 ハルはそっと、自分の腹の上に手を置いた。 そこにはまだ、何の違和感もない。 けれど、森で出会った子供たちの言葉や、タヌキイヌ大臣の鼻が、確かな予感を運んできた。 「街の子供たちが言ってたこと……本当かもしれないな」 ユキが背後からハルを包み込むように抱きしめる。大きな手が、ハルの手の上から腹を優しく撫でた。 「……だったらいいな。俺、最高のパパになるよ」 「待てよ、まだ決まったわけじゃ……」 「いいんだ。ハルと一緒に、この子の成長を見守れるなら……俺、世界で一番幸せだ」 ユキの喉を鳴らすような低い声が、ハルの首筋に心地よく響く。 戦火を越え、陰謀を退け、ようやく辿り着いた穏やかな時間。 窓の外では、ワーウルフの国の豊かな森が、月明かりに照らされて静かに揺れている。 これから始まる、新しい命との物語。 ハルはユキの腕の中で、幸せな予感に身を委ねながら、静かに瞳を閉じた。

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