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92.ベビールーム

翌朝。 今日はセバスチャンが御者を務める馬車で城へ移動し、公務を行う日だ。 大きなピクニックバスケットにぎゅうぎゅうと詰められたパピーたちは、これから始まる「お出かけ」に興奮を隠せない様子だ。 「生まれてすぐは、このバスケットに全員収まったはずなのに…!」 子供たちの成長に、ハルは目を見張る。 「みんな、ムチムチだからね」 ユキも、我が子の成長が嬉しくて仕方ないようだ。 入りきらず、バスケットからはみ出た末っ子のミナトをハルとユキが交互に抱きしめ、馬車はガタゴトと揺れながら城を目指した。 *** 城の裏門に到着すると、そこには数人の手慣れた乳母たちが待ち構えていた。 乳母たちの姿を見つけた瞬間、バスケットの中は一気にお祭り騒ぎとなった。 「キャン! キャンキャン!」 パピーたちは、自分たちの世話を焼き、時には親以上に甘やかしてくれる乳母たちが大好きだ。 濃茶色の尻尾が五本、千切れんばかりにぶんぶんと振られ、重いバスケットそのものがガタガタと派手に揺れる。 ハルの腕の中にいたミナトまでもが、「早く降ろして!」と言わんばかりにジタバタと暴れ、乳母の腕の中に飛び込んでいった。 「若様たち!相変わらずお元気で、モチモチでいらっしゃいますね!」 乳母たちに抱き上げられ、顔中をベロベロと舐めまわして大喜びする子供たちの姿を見て、ハルは安堵とともに、少しだけの寂しさを感じる。 「じゃあ、今日はよろしくお願いします」 「はいはい、若様たちは私たちにお任せくださいまし!」 城に着けば、彼らは安全だ。 これまでの騒乱を思えば、何の心配もない。 けれど、自分以外の誰かに無邪気に甘える背中を見送る瞬間、ハルの腕にはどうしても、ぽっかりと穴が開いたような感覚が残った。 *** 城の公務室。 父王は別室で国際機関との外交交渉に当たっており、ユキとハルに任されたのは、テロ被害を受けた森林の復興支援と、金鉱脈周辺の環境保護に関する書類の整理だった。 「ハル、無理はしなくていい。疲れたらすぐに休もう」 ユキは隣の席でペンを走らせながら、折に触れてハルを気遣った。 「大丈夫だよ、ユキ。俺にできることは、これくらいしかないから」 セバスチャンが手際よく仕分けした書類に目を通し、ハルも真剣な面持ちでペンを動かす。 産後半年とはいえ、体力はなかなか戻ってこない。ユキはそれを十分承知していたが、仕事は待ってはくれない。 それに、自分を救ってくれたこの国の人々を、今度は自分が支えるのだという自負が、ハルの背中を押していた。 *** 昼食を終えたハルは、ルーティン通りにパピーたちが待つ別棟へ向かった。 そこは、乳母がパピーたちを世話するベビールームだ。 赤ちゃんが好きなぬいぐるみやおもちゃが、あちこちに落ちている。 ハルが部屋を覗いたとき、パピーたちはおもちゃと乳母に夢中だったが、ハルが声を掛けると、「ママだ!」と言わんばかりに突進してきた。 「あら、皇太子妃様。ちょうど午後の授乳のお時間でございましたね」 乳母の一人がハルに気づき、にこやかに迎え入れる。 「先ほど、とっても可愛らしかったんですよ! ソラ様が転んでしまわれたのですが、それをカイト様とアサヒ様が心配そうに寄っていって、一生懸命ぺろぺろとなさって…! 素晴らしい兄弟愛で、本当に愛くるしい光景でございました!」 「それは、見たかったなぁ…!」 乳母たちが口々に午前中の様子を報告してくれる。 その光景を想像して、ハルの頬も自然と緩んだ。 傍らでは城付きの垂れ耳の老医師が、ニコニコしながらパピーを体重計に乗せ、聴診器を当てたり乳歯のチェックをしていた。 その横で、助手が健康情報を手際よく書類に書き込んでいく。 「リク様、ソラ様、カイト様、アサヒ様、ミナト様。皆様、健やかにお育ちのようで全く問題ございませんな」 「よかったです」 ハルは長男のリクに乳を吸わせながら相槌を打った。 自分がまさしく『国の宝』を産み、育てた立場であることを思い出し、改めて身が引き締まる思いだ。 ちうちうと一心不乱に吸い付くリクの温もりに、公務で強張った心も身体も、一時的に解きほぐされていく。 「午前中の離乳食は、パクパク召し上がって、完食なさいました」 乳母の一人が、誇らしげに報告してくる。 「そっか。ありがとう」 老医師は掛けていた眼鏡を外すと、ハルに真っ直ぐ向き直った。 「……それで、皇太子妃様。若様たちは生後半年になります。身体も大きくなり、乳歯も生え揃ってきました。そろそろ、断乳の準備を始めましょう」 老医師の口から出たその言葉に、ハルは「あ……はい」と短く応じた。 断乳。 それは母親としての役割が一つ、次の段階へ進むことを意味していた。 ヒトよりは生育が早く、一般的な犬科よりは育成が遅いワーウルフの赤ちゃん。 生後半年という節目は、一つの別れの時でもあるらしい。 「今は朝、昼、夕、夜のタイミングで授乳をなさっておられますね? でしたら今後はなるべく頻度を減らして、おっぱいを休ませていきましょう。授乳の頻度が減れば自然と分泌量も減り、そのうち止まります。若様たちも、少しずつおっぱいの無い生活に慣れていきますよ」 「わかりました……」 そういうものなのか。 ハルは一人目の授乳を終えると、二人目のパピーを抱き上げ、再び乳を与えた。 なんだか急に名残惜しい気もするが、成長の証なのだと思えば、喜ぶべきことなのだろう。

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