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第5話 全ては突然に

眠い目をこすりながら、渡り廊下を通って講堂へ。 別に朝は苦手じゃないけど、原稿を作るのに少し夜更かししたせいで寝覚めはあんまりよくない。 リハが終わったら眠気覚ましにカフェオレ飲みに行こう。あくび混じりに考えながらぼんやりした頭でステージ袖へと向かっていたんだけど、 ふと聞こえたピアノの音に思わず足を止めてしまった。 渡り廊下を抜けた先、ダンス場からピアノの音がする。誰かがCDを流しているんだろう。 誰か、といったものの、こんな時間にここを利用する人間は限られている。普段は放課後にダンス部と時々空手部が型の確認に利用しているくらいの部屋だ。早朝に、しかも聞き覚えのありすぎるピアノ曲をかけている人間なんて、僕の知る限りたった一人しかいない。 邪魔にならないようにそっと扉を開け中を覗き込めば、そこには思った通りの人がいた。 黒のTシャツに下は彩華高校のジャージなんて別段目立つ格好でもないのに、一瞬で目を奪われる。 テンポの早いピアノの音に合わせて軽やかに跳ねる肢体。くるりと回る身体に一切のブレはなく、爪先の先にまで神経を研ぎ澄ませているのがわかる。ふわりと揺れる束ねられた亜麻色の髪の一本にまで魅せられる。 普段はおっとりしているのに、ひとたびスイッチが入れば雰囲気がガラリと変わり、纏う空気には艶すら感じた。 けれど、彼の演技はこんなものじゃない。彼の真価が発揮されるのはこんな小さなダンス場ではなく、氷上だ。 美鳥飛鳥(みどりあすか)。僕の友人である彼は、氷の上の表現者、フィギュアスケーターだ。 オリエンタルな曲に合わせて飛鳥の身体がふわりと宙に舞う。重力を感じさせない軽やかなジャンプ。ストンと地に降りた身体はくるりと回り、最後には床に膝をつき胸に手を当て、まるで祈りを捧げるように空を見上げて動きを止めた。 幻想的な光景の中、ピアノの最後の一音が室内の空気をふるわせる。 身体を突き抜けるような衝撃と感動。僕は上手く説明できないこの感情を素直に両手を叩いて伝える事にした。 「あ、(あきら)。」 突然聞こえた拍手に、飛鳥はぴくりと肩を震わせ我にかえったようだった。 ゆっくりと立ち上がり照れ隠しなのか、少し乱れた横髪をかきあげてからぽんぽんとジャージの膝をはたいた。 「おはよ。今日はこっちだったんだね。」 「うん。昨日、色に曲をもらったから構成を練ろうと思って。晃は生徒会?」 「そ。今日の修了式、久々にプロジェクター使うからテストしとこうって話になってね。」 「会長業務お疲れ様です。」 ふにゃりと微笑むその表情からは、先程までの鋭さや艶は感じられない。 美鳥飛鳥という人は生粋のフィギュアスケーターなんだと思う。 つい最近まではオリンピックの代表争いに名前が上がっていたくらいの実力者。けれど、飛鳥は数ヶ月前に行われた大会を最後に選手を電撃引退してしまった。 選手として規定や制約のある中での演技ではなく、自分らしく自由に人の心に響く表現をしたいと今までの環境を捨て、スケートリンクが近くにあるという理由でこの彩華(さいか)高校に転校してきた凄い人なのだ。 そんな彼の今の表現の場所は、月に二回行われるスケート部のアイスショー。飛鳥を支えるために僕が提案して作った、部員わずか三人の部活によるボランティアイベントだ。 「どう?順調?」 「うん。晃がテーマを決めた方がいいんじゃないかってアドバイスくれたおかげで、最近凄くスムーズにいってるよ。」 「それならよかった。あんまり無理しないようにね。」 月に二回の公演は飛鳥のやりたい事ではあったけれども、毎月毎月色と曲決めをし、構成を考え、三年の手芸部の先輩と衣装決めをし、MCの僕と打ち合わせをして練習を重ねるという中々に大変な事だと思う。 それに、だ。最近の飛鳥はそれだけじゃない。 「飛鳥。」 ちょいちょいと手招きすれば、飛鳥は首を傾げつつ素直に僕の目の前に立ち、僕の目線に合わせて少し腰を落とした。 首元から飛鳥の白い肌が覗く。 僕はため息とともに覗いた鎖骨の一点を指で軽くつついてやった。 「あんまり無理しちゃだめだよ?」 「え?……あっ。」 僕の指の先、鎖骨に付けられた真新しい鬱血の痕に気づいて飛鳥の顔が一瞬にして茹で上がる。 慌ててシャツをたくし上げて首元を隠すのはいいんだけど……うん、今度は露になった脇腹に見つけてしまった。 (しき)のやつ、ちゃんと身体を労わってあげてるんだろうか。ちょっと心配になってきた。 「嫌な時はハッキリ言うんだよ?強要してくるようなら僕からガツンと言ってやるんだからね。」 保健の先生みたいな台詞が思わず口から漏れれば、飛鳥はくすっと笑った。 けれど、その口元がすぐにきゅっと歪む。 「あの……ごめんね。」 目の前の僕ですらかろうじて聞き取れるくらいの小さな小さな声。色に言えない、飛鳥が知ってる僕の秘密。 僕はあえてそれを笑い飛ばして、俯くそのおでこをぴんっ、と弾いてやった。 「飛鳥が気にすることじゃないんだから、謝らないの!」 でも、と口ごもる飛鳥のおでこにぴんっ、ともう一発。 本当に美鳥飛鳥という人は、馬鹿がつくくらい純粋でお人好しだ。同じ人間に惹かれた。ただそれだけの事なのに、飛鳥はきっとずっと気にし続けちゃうんだろう。 「……僕も早いとこ次の恋を探さないとかなぁ。」 最近感じてる寂しい気持ちも飛鳥が抱える罪悪感も、解決する方法はわかっているのに。なかなか先に進めないのは、やっぱりどこかでまだ引きずっているからなのか、それとも。 「応援するからね!晃は絶対幸せにならないと駄目なんだから。」 両手をとられ、力強くぶんぶんと振ってくる飛鳥の……首元。腕が上下するたびチラチラと見えるものが気になって仕方ない。 「……飛鳥、そろそろ生徒会とか放送部とか講堂に行くためにここ通るはずだから。」 「へ?……あ。」 じ、と首元に視線を注げば、飛鳥は再び思い出したらしく慌ててシャツをたくし上げて首元を隠す。 いや、だからそうすると脇腹のキスマークが。 「き、着替えてくる!」 顔を真っ赤にしてダンス場を飛び出して行ったその後ろ姿を見ながら、僕は盛大にため息を吐き出した。 幸せになれと言われたものの、幸せボケしてる友人二人が心配すぎて。 「自分の幸せなんて考えられないなぁ……」 口をついて出た本音は、幸い誰にも聞かれずダンス場に溶けて消えていった。 この時、僕は気づいていなかったんだ。 そうやって友人の恋路をため息混じりに見守るこの環境も、その時間も。それこそ幸せな瞬間だったんだってこと。 心配だなぁって思わず笑ってしまった今がどれだけ幸せだったかなんて、その時の僕は考えもしなかった。

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