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第9話
震えを止められず、思うように身体が動かない。
言葉を発することすら難しい僕を、飛鳥 は無言でぎゅっと抱きしめてくれた。
寝たフリをしていろと色 は言っていた気がするけど、この状態の僕をこれ以上一人で移動させることは無理だと判断したんだろう。襖の前で飛鳥は僕を守るように抱きしめ、息を殺す。
真っ暗な部屋の中、勢いよく締めすぎてわずかにあいてしまっていた隙間から光が差し込んでいる。
見たくないはずなのに、どうしても視線はそこから襖の奥へと向いてしまって。飛鳥の腕の隙間から僕は数年ぶりにその人の姿を目にした。
喪服に身を包み、ゆるくカールしたロングヘアは今日は結い上げられサイドでまとめられている。
四十近いのに幼さを感じさせる黒目がちの大きな瞳。高めの可愛らしい声。
変わっていない。あの頃と何も変わっていない。
「晃 ちゃん、……あら?」
「お久しぶりです。俺の事覚えてますか?」
色が立ち上がり、開かれた入口へと歩み寄る。この先には入れないようにと、それとなくあの人の前に立ちはだかる。
「え、もしかして…色君?」
「はい。櫻井色です。」
「まぁ!大きくなって。ますますお父様に似てきたわね。」
「……どうも。俺、今晃と同じ高校なんですよ。」
「まぁ、そうだったの。あの子に付き添ってくれてありがとう。……それで、晃ちゃんは?」
名前を呼ばれただけで、びくりと身体が跳ねる。息を殺したまま、飛鳥が無言で抱き寄せる力を強めてくれた。
「あー、あいつ今荷物を取りに帰ってて、いないんです。」
「あら、入れ違っちゃったのね。」
「はい。なので何か伝言あるな…」
「一緒に帰ろうと思ったのに、困ったわ。」
ドクンと心臓が痙攣した。
息が、上手くできない。
「えっと、帰る…って?」
色の困惑も、あの人は気づいていないみたいだった。
「だって、あの人が亡くなって晃ちゃん一人でしょ?これからは私と暮らすんだし、早い方がいいと思って迎えに来たのよ。……もちろん、あの人に最期に会いたかったのもあるけど。」
優しい声音で、けれどもそれは他が介することを許さない、絶対的な言葉。皆は気づいただろうか。
口調は穏やかで、優しくて。
いつだって、この人は人当たりよく、美人で、周りから見れば理想の母親だった。
ずっとずっと、誰も、誰にも気づかれずに隠し通せたはずだったのに。
駄目。
これ以上は。
知られたくない。
「……なんで、おばさんが晃と暮らすんです?」
「え?だってあの人約束したのよ、晃ちゃんを立派に育てるって。君は家事と育児に疲れてるから、今は少し離れて休んだ方がいいってあの人の言葉を受け入れたのに。……これからは私がついてあげなくちゃ。」
葬儀場に似合わない穏やかな笑顔。
怖い。怖い。怖い。嫌だ、
今でも脳裏に鮮明に蘇る記憶。
また、僕はあの日々に戻らないといけないのか。
息ができない。苦しい。
助けて、
「……彩華 高校は全寮制の高校です。どんな事情があれ、在学中の退寮は認められません。」
部屋の片隅で様子をうかがっていた先生が、ゆっくりと立ち上がった。
「あの、」
「申し遅れました、晃君の担任をしています、木崎総士 といいます。」
先生は一瞬だけ視線をこちらに向けた気がしたけど、上手く呼吸が出来ずに酸素を取り込めない僕の視界はだんだんと霞んでいき、意識が遠のいていく。
「まぁ、先生でいらしたんですね。私、晃の母の藍原春菜 と申します。」
「あいつは今父親の死を受け入れるのに精一杯の状況です。これから先の話を出来る状況じゃありません。」
「ですが、」
「話があるなら後日学校で聞きます。今は、そっとしておいてやって下さい。」
遠くで声が聞こえる。
苦しい。
息、できない。
ちゃんと呼吸しなきゃ、
誰にも知られたくない。
こんなところ、誰にも見られたくないのに。
苦しい、よ。
『……わかりましたわ。それでは、後日。』
ありえない速さで刻まれる自らの心音。
その遠くで、皆の声がする。
『…………きら、あきらっ!』
ぐらぐらと揺れる視界。
全力で走ったみたいに胸が苦しくて、酸素を取り込もうと身体は勝手に呼吸を繰り返してる。だけど、苦しくなる一方だった。
『晃、あきらっ!!』
飛鳥の声が聞こえる。
バンッ、と襖の開く音。明るくなる視界。
『美鳥、どいてろ!』
苦しい。苦しい、よ。
滲む視界の中で助けを求めて手を伸ばせば、大きな手にぎゅっと掴まれて、強い力で抱き寄せられた。
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