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第10話
ガサガサと音がして、僕の口元に何かが押し当てられる。
「ゆっくり息をはけ。無理はしなくていい。……大丈夫だ、じきおさまる。」
大丈夫だと優しく繰り返しながら、僕の背中をさする大きな手。穏やかなその声に、荒く繰り返されていた呼吸が少しずつ落ちついていく。
真っ白だった視界が、次第に像を結び始めた。
僕の口元にコンビニの袋をあて、優しく背中をさすってくれている木崎 先生。今にも泣き出しそうな顔で僕を覗き込んでいる飛鳥 に、不安そうに眉を寄せる色 。
まだ呼吸は自由にならずに身体は勝手に荒い息を繰り返しているけど、少しずつ思考もクリアになっていく。
過呼吸なんて初めておこした。僕はそんなにもあの人の事を恐れていたのか。
全て忘れたつもりでいたのに、これから先も、この事実は僕と父さんの二人の内にしまっておくはずだったのに。
これだけの醜態を晒してしまった今、三人に何の説明もしない訳にはいかない。僕を抱き支える木崎先生の顔は明らかに説明を求めていた。
けれど、先生はその視線を僕ではなく色へと向ける。
「……櫻井、どういう事だ。」
僕はいまだに話を出来る状況じゃない。話を振られた色は一瞬木崎先生に視線を向け、なんと答えていいものかと視線をさまよわせた。
「……俺も、何も知らないんだ。憶測でしかない。でも、思い出したんだよ。」
色の瞳が僕を映す。
駄目。お願い、何も言わないで。
「……俺が彩華 に転校してきて一番驚いたのは、晃 が普通に体育の授業を受けてたことだ。」
突然の話に先生も飛鳥も眉をひそめる。けれど、それは知られたくなかった事実の確信をついていた。
色は気づいたんだ。
やめて、これ以上言わないで。
けれど、僕の意思は言葉にならなかった。
「こいつとは小、中と一緒だったけど、確か喘息だって理由で体育はずっと見学してたんだ。」
「そういえば、彩華でも水泳の授業は見学してた…よね?」
今まで誰にも知られずに隠し通していた事が暴かれていく。
「晃が喘息おこしたとこなんて見たことねぇんだよ。授業以外では普通に他の奴らと走り回ってたし。……そこに、どんな意味があるかなんて今まで考えもしなかった。」
お願い、これ以上は駄目。必死に隠して作ってきた僕の世界が終わっちゃう。
荒い呼吸を繰り返しながら視線で訴えたけど、僕の悲痛な叫びは色には届かなかった。
「……晃が半袖着てるの見たことねぇんだよ。」
震える色の言葉に、先生と飛鳥の瞳が見開かれる。
「体育の時、いつもジャージ着てた、よね。夏も、カーディガン着てて。でも、それって、…」
「藍原、お前…」
背中をさすっていた先生の手が僕のブレザーへと伸ばされる。
やめて、
言葉にするより早く、先生は僕のブレザーの裾をシャツごと鷲づかんで捲りあげた。
現実を直視出来なくて、僕は顔を背ける。それでも、みんなが息を飲んだのが空気でわかった。
見られた。
知られた。
あの人から離れて数年たった今も僕の身体には無数の浅黒い痣が残されている。
それが何を意味するかなんて言わずとも皆わかっただろう。
終わった。
この人達にだけは、知られたくなかったのに。
制服を掴んでいた先生の手が、力なく落とされた。
誰もが言葉を失い、呆然としている。
もうごまかすことは出来ない。知られる前には戻れない。恐る恐る皆の顔を一瞥して、僕は笑うしかなかった。
「……虐待、なんて…あの人は思っちゃいないよ。」
ようやく言葉を発することが出来たけど、全ては遅すぎた。
あれだけ隠したかった事実を、僕はその口で語らなければならないんだ。同情と哀れみの視線を受けながら。
それは、あの人に打たれるよりも、何よりも辛い事なのに。
「あの人の理想と外れる事は全て悪い事で、あの人はそれを正していただけなんだよ。……僕は不出来な息子だったから。」
「…ど、して……」
飛鳥の亜麻色の瞳から、涙がこぼれて頬をつたった。
「だって、晃は…成績も優秀で、生徒会長で、人望もあってっ、…悪い所なんて…っ、」
「……同性愛者の子供を誇れるような親なんてそうそう居ないよ。」
自嘲しながら事実を告げれば、飛鳥は言葉を失った。
ぴくりと、僕を支えていた先生の手が震える。その後ろでは、色がぐっと何かに耐えるように自らの拳を握りしめ俯いていた。
こんな顔させたくなかった。してほしくなかった。
この人達のいる世界は楽しくて、僕は本当に全てを忘れていられたのに。
可哀想だと思われたんだろうか。それとも痣だらけの身体が気持ち悪いって思われたかな。どちらにせよ、この人達が僕の事を今まで通り普通に見てくれる事は無い。
打たれたわけでもないのに、僕の心臓はズキリと痛んで、じわじわと鈍い痛みが身体中に広がっていく。
これから先大好きな人達に同情や哀れみを受けながら生きていくなんて、それはどれだけ辛い事なんだろう。
もう、嫌だ。
今すぐ消えてしまいたい。
「っ、……晃っ、」
目の前でぽろぽろと泣いていた飛鳥が、突然勢いよく僕に飛びついてきた。バランスを崩して思いっきり後ろに倒れそうになったけど、先生が支えてくれてなんとか飛び込んできた飛鳥を受け止める。
「あ、飛鳥、」
ぎゅっと抱きしめられ、息が詰まる。
もう放っておいて欲しいのに。飛鳥は絶対に離すまいとさらに力を込め、僕の肩口に顔を埋めた。
可哀想も、ごめんねも、何も聞きたくないのに。
もう、放っておいて欲しいんだ。
「……大好きだよっ、」
泣きながら僕の耳元で囁かれた言葉は、同情でも謝罪でも、ましてや哀れみでもなく……肯定だった。
「晃の事、大好きだよっ、…僕の自慢の友達なんだ、……大事な、大事な人なんだ、っ、」
大好きだって、何度も何度も。その言葉は胸の内に染み込んできて、ゆっくり、ゆっくり、空っぽだった心臓を満たしていく。
飛鳥の後ろで様子を伺っていた色が、畳に膝をつき僕と飛鳥を抱き寄せる。
「……その、なんだ。俺も、そう思ってる。」
照れくさそうに口をへの字に曲げて、視線を微妙にそらせて。でも、ぎゅっと抱きしめてくれた。
返答につまって呆然と二人の顔を見つめていたら、僕の頭に大きな手がのせられていつものように雑に髪をかき乱す。
なんで、この人達はこうなんだろう。
飛鳥はいっつも泣き虫で。
色はいつでも無愛想で。
木崎先生はいつだって何も言わないけど……
なんでこんなに優しいんだろう。
「……ありがと。」
ぽつりと独り言のように呟けば、皆はいつものように優しい顔で笑ってくれた。
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