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第14話

豚汁に肉じゃが、ほうれん草のおひたしに、きゅうりの浅漬け。狭い部屋の小さなローテーブルに所狭しと並べられた料理の数々。 先程から先生は呆然とそれらを眺めているだけだった。 「ほら、食べないと冷めちゃうよ?」 いただきますと手を合わせて僕が食べ始めてようやく先生も豚汁の入ったお椀に手を伸ばし、ぎこちない動きでゆっくりと口元へと運んだ。 一口、こくりと喉が動けば、その瞳がまん丸に見開かれる。 「どーよ?」 「……うまい。」 それ以上の感想はないらしい。 無言で箸を動かし始めたのでお世辞ではないと思う。作ってる最中に味見はしたけど、いつも通りの味だったし。 けれど一口食べるたびに驚きに瞳を瞬かせ動きを止められては、どうにも素直に喜べない。 「好みに合わなかった?」 「……いや、そうじゃなくて。高校生男子が作るレベルじゃねぇだろ、これ。」 一通りのおかずを口にして、先生はポツリと漏らした。 どうやら相当に気に入ってくれたらしい。 料理に関しては謙遜しない事にしているので、先生の言葉に僕はふふんと胸を反らせた。 「まぁ、師匠が凄い人だからね。」 「師匠?」 「そ。両親の離婚が決まった時にね、ハルさん…櫻井家のお手伝いさんに弟子入りしたんだ。あの大富豪櫻井家の胃袋を長年支えてきた技を伝授してもらったわけよ。」 ハルさんは長年櫻井家の台所を任されているお手伝いさんだ。色が産まれた時には既に櫻井家に通っていたらしいから、色にとってはお手伝いさんというよりおばあちゃんみたいな人なのかもしれない。還暦を過ぎた今でも櫻井家に頼み込まれて、回数を減らしつつ今も現役で台所に立っている。いく人かいるお手伝いさん達の中でもレジェンド的存在だ。 両親の離婚……正確には父さんがあの人から僕を遠ざけるために二人で暮らすと決めてくれた時から、僕は引越しまでの短い間ハルさんに料理を教えて欲しいと頭を下げた。これから先、一人でも大丈夫だと父さんに証明しなければならなかったから。 僕は肉じゃがのじゃがいもを一口放り込んで噛み締める。顆粒じゃなくてしっかり出汁をとれればよかったんだけど、それでもハルさん直伝の味はやっぱり美味しい。 父さんも好きだって言ってくれた、優しい味。 「父さん本気で仕事一筋の人だったから料理はからきしだったし、そもそもあんまり家にいなかったから。だから僕が家事全部やるからやり方教えて欲しいって頼んだら、一切妥協なしで厳しく教えてくれたんだ。」 ハルさんには本当に感謝している。ただの料理教室ではなく、効率的に動くにはどうしたらいいのか、献立の立て方から鮮度のいい野菜や魚の見分け方、さらには料理だけではなく掃除洗濯に至るまで、一から十まで徹底的に教えてくれたおかげで一人で生きていくのに十分すぎるスキルを身につけさせてもらった。いつでもハルさんの代わりに櫻井家のキッチンを任せられると、ハルさんからも櫻井家のみんなからもお墨付きを貰ったくらいだ。 ハルさんから貰った秘伝のレシピが記されたノートは僕の一生の宝物だ。 「……ちょっと待て、お前その当時いくつだ。」 「ん?中二の頃だったから十四とかかな。」 「もしかして、親御さん離婚してからお前ほとんど一人で生活してたって事か?」 「まあ、父さん今と同じで出張多かったから、一週間とか酷い時には一ヶ月近く帰ってこない時もあったし。」 先生の箸を持つ手が完全に止まった。ゆっくりとご飯茶碗の上に箸を置いた先生が、テーブル越しに真っ直ぐ僕を見つめる。 「十四の子供を一人にして家事も全部やらせてたって、お前それ、立派な育児放棄だ…」 「違うよ。」 怒りすら感じられた先生の言葉を、僕は最後まで言わせなかった。 「僕が父さんを騙したんだ。今時の中学生は授業で習うし、みんなこれくらい出来るよって。……父さん、そもそも子供が苦手で、育児とか教育とか疎かったからね。あっさり信じちゃった。」 多分、僕が一人じゃ無理だと言えば父さんは仕事をセーブして家にいてくれたんだと思う。だけど僕はそんな事させたくなかったから。 「父さん達ね、近所でも有名なおしどり夫婦だったんだ。子供の僕から見ても互いにベタ惚れしてるのモロわかりでさ……僕さえいなければ、多分ずっとラブラブだったんだろうなって。」 「藍原、」 「父さんはそんな愛する人より僕を守る選択をしてくれたんだよ?もう、それだけで十分すぎるほど良くしてもらってたよ。……それにほら、そのおかげで人連れ込み放題で色んな意味で自由にさせてもらってたし。」 苦しそうに眉を顰める先生に僕は笑ってやる。 突き刺さる視線も、深いため息も、僕は見なかったふりをした。 僕が産まれてからあの人はおかしくなった。僕がいる時だけ、あの人は人が変わってしまう。 僕さえいなければ。……そう、思われても仕方なかったのに。愛する人が狂っていく姿を前に悩みながら、それでも父さんは最後には僕を守ることを選んでくれた。 「父さんね、定期的に連絡くれるんだ。大丈夫か?お金ちゃんと足りてるか?風邪ひいてないか?って。で、最後に必ずこう言うの。……ごめんな、って。」 他人から見ればネグレクトで、駄目な父親だったのかもしれない。でも、僕にとっては間違いなく優しい「お父さん」だった。 「そりゃ、完璧ではなかったと思うよ。子供にご飯作ってもらわないと不摂生な生活しちゃうような駄目な大人だったわけだし?」 ニヤリと含みのある笑みを向ければ、先生の顔がうっ、と歪む。 逃げるようにそらされた視線に、僕は思わず声を出して笑った。 「父さんにも、もっと真剣に料理教えてあげればよかったな。そしたら……」 死なずにすんだのかもしれない。 浮かんだ言葉は、音にならなかった。 互いに負い目があって、親子と呼ぶにはちょっとよそよそしかった僕達。 もっと、ちゃんと踏み込んで、言いたい事を口にしていたら。 いなくなるんじゃなくて、もっと押しかけてご飯を作ってあげていれば。 ぽたりと、ローテーブルに雫が落ちた。 一つ、二つ。 溢れてくるものを、僕は止められなかった。 「……もう、言ってもどうしようもないんだっけ。」 父さんはもういない。 わかっていたはずの事が、今になって心臓を揺さぶる。 死んだんだ。もう二度と会えないんだ。 見てきたはずの現実が、ようやく温度を持って胸の中に落ちてきた。 拭っても、拭っても、涙は止まってくれない。 「……藍原、」 低く優しい声が、静かな部屋に響く。 ゆっくりと立ち上がった先生は僕の隣へ腰を下ろして、僕の髪を一撫ぜした。その手に身を任せて、僕は先生に抱き寄せられるまま、その胸に顔を埋める。 「食事中に、ごめ…」 「もういい。何も言うな。」 いつもの雑な手じゃない。壊れ物を扱うみたいに、優しく僕の頭を上下する無骨な手。 「こういう時は気が済むまで泣いときゃいいんだよ。」 耳元で聞こえた声がじんわりと僕の涙腺を揺らすせいで、堪えていたはずのものが全て流れ出していく。 「っ、……とう、さんっ、」 寂しいのか、悲しいのか、苦しいのか。それすらはっきり分からなかったけど。 「……晃。」 密やかに名を呼ぶその声と、僕を包む優しさに促されるように、僕は温かな胸の中で静かに先生のシャツを濡らし続けた。

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