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第17話

先生の入れてくれたカフェオレとコーヒーを手に、それぞれ皆口を噤んだ。 何から話すべきなんだろ。 手元に視線を落として、ぼんやりと考える。 そんな僕を見兼ねてか、最初に口を開いたのは先生だった。 「藍原(あいはら)。そもそもお前、現状わかってるか?この間はまともに話を聞けた状態じゃなかっただろ。」 この間、が父さんの棺守り中のあの夜のことを指すのは明白だった。 あの時僕は過去がフラッシュバックして、恐怖に過呼吸を起こして、確かに周りの状況を正確に把握できるような精神状態じゃなかった。 それでも、あの人の声だけは僕の耳に鮮烈に残ってる。 「……三者面談、来るんでしょ?父さんの代わりに。」 先生は無言で頷いた。 来週、本当なら父さんとするはずだった三者面談。この先の話もしたいし、母親として参加すると、あの時確かそんな話をしていたはずだ。 「その場しのぎの方便のつもりだったんだけどな。」 先生の思いため息が、しんとした部屋に響いた。 「基本的に生徒自身が望まない面会は学校として拒否できる。親……親権者をのぞいてな。」 「そっか。(あきら)のご両親は離婚してるから、」 「ああ。それを理由に……断るつもりでいたんだが、」 言葉を濁す先生に(しき)飛鳥(あすか)が揃って眉を顰める。 先生の視線は真っ直ぐ僕に向けられていた。現状をわかっているかと僕の顔色を伺うその視線を、僕は眉ひとつ動かすことなく受け止める。 「……ご両親、離婚してないな?」 僕は小さく頷いた。 「な、嘘だろ、」 「そんな、」 「正確には、一度は離婚して……最近再婚してたみたいだね。」 父子家庭になった事で各種の手続きをとった覚えはある。だから疑うことすらしなかった。苗字だって変わるわけでもないし、今の今まで気づけなかったんだ。 「……僕も、父さんの死亡の手続きに戸籍謄本とって初めて気づいた。」 僕も、親族すらも知らなかった事実。 学校にも届出を出したから、先生はそれで気づいたんだろう。 「なんでそんな事になってんだよ。」 「父さん、あの人の事を事愛してたからね。僕を守る為に一度は離婚を決意したけど……見捨てられなかったんだろうね。」 親として子供を守らなければという義務感。それ故に最愛の人を突き放さなければならなかった苦痛。 離婚した後も父さんが悩んでいた事くらいわかっていた。時々僕に内緒で二人で会っていたことも。 だからこそ、僕は高校を卒業したら父さんの前から完全に姿を消して、あの人とやり直してもらうつもりだったんだから。 「とにかく、『母親』である以上学校として面会を拒否する事は難しい。」 そう。先生の言う通り、このままではどれだけ拒絶しようとも僕はあの人と会わなければならない。 たとえ今回の面談をやり過ごせたとしても、あの人が面会を希望すれば今後も何度だって顔を合わせなければならないんだ。 「一応確認しとくが、児童相談所への相談記録はあるか?」 「ないよ。……普段はね、本当に絵に書いたような理想の母親で妻だったんだよ。だから父さんは毎回悩んでた、何かの間違いだって。次はもうこんな事にはならないんじゃないかって。」 優しくて、人当たりも良くて、料理上手で。いつもは穏やかな笑みを浮かべている人だった。 「僕が……僕だけがなんでかあの人のスイッチを押しちゃうんだよ。気がついたらヒステリックに叫んで、手近な物を手に僕の身体を殴りつけるんだけど……我に返ったあと本人は毎回泣きながら僕の手当をするし、後悔と反省もしてるから。」 僕を見つめる三人の顔が歪む。 そんな顔させたいわけじゃないんだけど、優しいこの人達は自分の事のように感じてしまうんだろう。 僕自身はこれが当たり前の日常で、これが異常なんだとか、誰かに相談するとか、当時はそんな事考えもしなかったんだけど。それを言うと多分皆はもっと苦しい思いをしちゃいそうだから、言葉はカフェオレと共に飲み込んだ。 「児相への相談記録がないとなると、お前自らが学校側に全てを説明して理解を得るしかない。でなければ……三者面談、やるしかなくなるぞ。」 先生の言葉が重くのしかかる。 誰にも知られたくなかった事実を、自ら校内に広めないといけない。それは、あの人と顔を合わせることとどっちが辛いんだろう。 「仮に三者面談をやったとしても、卒業しても共に暮らす気はないし、会うつもりもないと……お前、ちゃんと伝えられるか?」 心配そうに顔を覗き込んでくる3人の視線に僕は答えられなかった。 声を聞いただけであの状態だ。あの人を目の前にして、自分は自分でいられるのか。植え付けられた恐怖を払拭してちゃんと話ができるのか。 考えただけでも僕の手は小さく震えてしまって、誤魔化すようにマグカップを両手で握りしめた。 「あの、今から児童相談所に相談するのは駄目なんですか?その方が秘密は守ってくれるだろうし、相談した事実があれば学校だって面会拒否を考えて…」 「手遅れだよ。」 飛鳥の提案は申し訳ないけどバッサリと切り捨てさせてもらった。 僕も、そしてきっと先生だってそれくらい考えただろう。だけど、全ては遅すぎたんだ。 僕は答えの代わりに壁にかけられていたカレンダーへと視線を移した。 「……そうか、誕生日。」 色はどうやら気づいたらしい。漏らされた言葉に首を傾げる飛鳥を横目に、先生は小さく頷いた。 「藍原。お前、誕生日四月二日だな?」 そう、四月二日。来週僕は誕生日がきて十八歳になる。成人するんだ。 飛鳥もようやくその事実に気づいて自らの口元をおさえた。 「そんな、じゃあ…」 「打つ手なしかよ。」 成人すれば児相の管轄外、今相談しても門前払いが関の山。だけど、僕はまだ学生で無力な子供だ。 重苦しい空気の中、先生がくせっ毛を掻き乱す。 「……逆に成人しちまえば自分の意思だけで戸籍を分離させる事は簡単にできる。養子縁組もな。」 それは、想定外の言葉だった。 思わず俯いていた顔をあげれば、目が合った先生は何故だかあー、と視線を泳がせ言い淀む。 「だから、その……分籍して、例えば父方の親族の誰かと養子縁組でもすれば卒業しても戸籍から居場所を知られる事はないし、養父母があちらさんを拒否してくれれば……って、手が無いわけでもないんだがな。」 「そんな厄介事を引き受けてくれる人なんてどこにもいないよ。」 確かに手段としてはありなのかもしれないけど、あまりにも現実味が無さすぎる。 僕の脳裏に数日前の出来事が思い起こされた。 ――いくら親戚でも、そこまで面倒はみきれない。 父さんの通夜の席で、僕の居ない間に親族が僕の引き受け先で揉めていた。うちは駄目だと皆なにかと理由をつけて押し付けあって。 そんなもんだよなと、あの時の僕は扉越しに漏れ聞こえる話に鼻で笑ってしまった。 「僕が全寮制の高校に通ってて、しかもあと数日で成人するって話した時、親族みんながほっとした顔したんだよね。」 わずか数日の間の後見人ならと叔母が引き受けてくれたけど、そうでなければどうなっていた事やら。 「……結局、誰も助けちゃくれないんだよ。」 親族も、親ですらも。 だからこそ誰にも頼らず、迷惑をかけず、一人で生きていきたかった。 神様は意地悪だ。一人になりたい、そんなささやかな願いすら叶えてくれないなんて。 「っ、……あきら、」 飛鳥の手が、ぎゅっと握りしめた僕の拳の上に重ねられる。 涙の滲んだ亜麻色の瞳が僕に向けられるのが耐えられなくて、僕は何も言えないまま視線をそらせた。 その隣では色がぐっと奥歯をかみ締め拳を握りしめていたのもわかっていたけど、どうする事もできなくて。 何か言わなきゃ。僕の事で二人が悲しむ必要なんてどこにもないのに。 「……じゃあ、俺とするか?養子縁組。」 「……は?」 何か言わなきゃと開いた口から飛び出たのは、なんとも素っ頓狂な声だった。

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