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閑話 できること

あの(あきら)があそこまで取り乱すなんて、初めて見たかもしれない。 バシンっと思いっきり閉められたドアの向こう、遠ざかっていく足音を聞きながら俺はぼんやりとそんな事を思っていた。 くそっ、と吐き捨てられた声に我に返って視線をめぐらせれば、木崎(きざき)が思いっきり舌打ちして、苦々しげに扉の向こうを睨みつけている。その隣では(すい)さんが真っ青な顔で完全に怯え固まっていた。 「追いかけねーの?」 「……知るか。どうせ家に帰ってくんだろ。」 短く息を吐き出した木崎は何事も無かったかのように自らのデスクに戻りイライラをパソコンのキーボードへぶつけはじめた。 思わず飛鳥(あすか)と顔を見合せ、どうしたものかと苦笑い。とりあえず、晃の事は一旦置いておいていまだに固まりっぱなしの彗さんに手近な椅子をすすめた。 「し、(しき)さん…」 今にも泣きそうな顔で説明を求めてくる彗さんに、いったいどこから話をしたものか。そもそも話してもいい話がどれだけあったっけ。 「あー。……とりあえず頼んでたやつ、見てもいいか?」 ……説明、めんどくせぇな。 考えた結果そう結論づけて俺は今目の前で起こったこと全てを無視することにした。 俺の幼馴染である晃の存在を、マネージャーである彗さんも当然昔から知っている。互いに読書が趣味で個人で連絡先の交換もしているらしいけど、だからといって晃の事情を勝手に話すわけにはいかないし、そうなるとこの状況を説明するうまい言葉が見つからない。チラリと飛鳥に視線を巡らせたが、無理だよと無言で首と両手をぶんぶん振って拒否されてしまった。 それこそ晃ならこういう時上手く場を収めるんだろうが、うん、俺達には無理だ。 困惑する彗さんには申し訳ないが聞かなかったことにしてくれと暗に伝えれば、彗さんは何か言いたげな口をぐっと噤み、抱えていた冊子をデスクに広げた。チクチクと刺さる視線は無視だ、無視。 「……業者はこちらで問題ないと思います。あとは予算との兼ね合いにはなってきますがどのモデルにするかですね。」 「レンタルって意外とリーズナブルなんだな。」 「…………あの、これ全然お安くないと思うんだけど。あの、本当に、本当に大丈夫なの、かな?」 「sikiの活動の一環として経費で落としますからご心配なく。」 見積もりの一覧を眺めながらカタログ片手に本格的に検討し始めたところで、おい、と声をかけられ俺は落としていた視線をあげる。 いつの間にやら荒れ狂っていたキーボードの音が止まっていた。 「俺は席を外した方がいい話か?」 「いや。だったら飛鳥を連れてきたりしねぇよ。仕事というより、スケート部の話だ。木崎にも一応確認しておきたいんだけど。」 時間あるかと逆に問えば、木崎は部屋の隅から俺達に近い場所へと座りなおした。 「……スケート部の話なら、あいつは呼び戻さなくていいのか?」 「いない方が都合がいい。」 「そうだね。当日まで黙っていた方がいいよね。」 「はぁ?」 わけがわからず眉間に皺を寄せる木崎を前に、俺は飛鳥と顔を見合せ小さく頷いた。 「三日後のスケート部のアイスショー。録音じゃなくて生音でやりたいんだ。」 木崎の瞳が瞬き、その視線がデスクに散らばっていたピアノのカタログへと向けられる。 「……本気か?」 人前で弾くことはしたくない。 父親は世界的に名の知れた指揮者、母親は元オペラ歌手、そんな境遇を知られて純粋に俺の音を聴いてもらえなくなるのが嫌で、ずっと避けてきた事だ。 だけど、今回はどうしても録音に頼りたくなかった。 姿勢よく隣に座る飛鳥に視線を移せば、こくりと頷いた決意の眼差しが木崎へと向けられる。 「いつもなら二曲で終わりなんですけど、今度だけはもう一曲やりたいんです。色の音で、僕の演技で、……晃に、伝えたいんです。」 木崎の瞳が大きく見開かれる。 父親の事、母親の事、今までの事。晃に何もしてやれない無力さに歯噛みしながら二人で考えた。自分達にできる事を。色々考えてはみたものの、結局出来る事なんてこんな事くらいしか思い浮かばなかった。 俺たちの出した答えに、木崎はふ、と口元を緩める。 「いいんじゃねぇの。お前達らしくて。」 顧問からの肯定に、飛鳥はほっと胸をなで下ろした。 ふわりと綻ぶその笑みにつられて、俺も思わず口角が上がる。 「まぁ、俺達に出来る事っていえばこれくらいしか思いつかないしな。」 「……晃なら、きっともっといい方法を考えてくれたんだろうけどね。」 さすがに当の本人に聞くわけにはいかないよな、と互いに顔を見合せ苦笑い。わかってはいたが、普段こういう事は参謀様に任せっきりなので、不在ではどうにもいい案が浮かばなかった。 「たくさん、たくさん助けてもらったんだ。部活を作ってくれて、資金や活動の場所を作ってくれて。だから、少しでも何か返したいんだ。」 「だな。俺達には結局これしかねぇんだよな。」 馬鹿の一つ覚えみたいに同じ事しかしてやれないのは正直悔しいけど、馬鹿みたいにそれしかやってこなかったんだ、それ以上の事なんて結局出来ないのかもしれない。 そもそも、晃は俺達が何かしたいと言ったって大人しく受け入れてはくれないだろうから。 「あの自己肯定感ゼロの猫かぶりにはそれくらい大々的にやってやれ。……サポートくらいは大人でやってやる。」 木崎が彗さんに頭を下げれば、お任せ下さいと彗さんは胸の前でぐっと拳を握りしめた。 たった一人のために演技をしたい。そんな無茶苦茶な考えをこの人達は何の抵抗もなく受け入れてくれるらしい。 俺と飛鳥は顔を見合せ、二人にお願いしますと頭を下げた。 生まれた時から家が向かいの幼なじみ。俺の置かれる環境を知っても、sikiとして活動し始めても、あいつは何一つ変わることなくいてくれた。 本人には絶対言ってやらないが、親友はと聞かれて一番に顔が浮かぶくらいには大切な奴なんだ。 俺に出来ることがあるならとにかくやってやりたい。 「……晃が、少しでも元気になってくれるといいね。」 「そうだな。」 俺に出来ること。 あいつの恐怖の大元を断ち切ってやることも、そこから逃がしてやる事も俺には出来ないから、せめて少しでもいつもの明るさを取り戻してくれたら。俺にはそれくらいしかしてやれないから。 ……そう、思っていたけど。 もしかしたら、まだあるかもしれない。俺がしてやれる事。 俺はカタログ片手に記載された金額に眉を顰めていた木崎をじ、と見つめた。 「で、俺らの話は終わりだけど。……本当に放っておいていいのか?」 「あ?」 ここにきて話を蒸し返されるとは思っていなかったんだろう。不機嫌を隠すことなく全面に押し出した木崎は、思いっきりガンをくれてきた。 彗さんの顔色が再び青くなっていったが……そこは、うん、あとでちゃんと謝っとこう。 不機嫌でもなんでも生徒一人に対してこれだけ感情を露わにするなんて、こいつ、それがどういう事なのか自分でわかってるんだろうか。 俺に出来るのは少しだけ、背中を押してやるくらいだ。それが晃にとって最良の結果になると信じて。 「晃が親の離婚で引っ越したその日から……あいつ、一週間くらい音信不通になったんだよ。」 「は?」 「いつもならメッセージ送ればすぐ返信きたのに、一週間既読はつかないし、挙句夏休み中だったから引越し先に行ってみたんだけど、親父さんは出張だったみたいで誰もいなかった。」 「え、行方不明!?」 「いや…」 過去の事なのに顔色を変えた飛鳥に、俺は一瞬何と説明したものかと視線をめぐらせる。 こいつにだけはあまり聞かせたくない話なんだけど。 「あー、あれだよ。……の家を一夜限りで渡り歩いて遊んでたらしい。」 「あ、お友達とお泊まり会してたんだね。」 そんな可愛いものじゃない事は、木崎には伝わったらしい。ひくりと口の端が引きつったのを俺は見逃さなかった。 「晃、お友達多いもんね。」 「あいつは辛いとか寂しいとか、絶対言わないから。……そういう事でしか気を紛らわせることが出来ないのかもな。」 むすっ、と木崎の口元がへの字に歪められる。 藍原晃は、きっと一人でも生きていける人間だ。知識も処世術も人並み以上、誰に頼らずとも全てのことをソツなくこなして、あいつなりに溜め込んだものを発散する術も知っている。 でもそれは、晃自身が本当に望んでいる生き方なんだろうか。 誰か一人くらい、あいつが甘えて縋る事ができる人間がいたっていいんじゃないか? 「また三人でお泊まりしよっか。」 「それでもいいけど、な。誰かが捕まえとかねぇとあいつ本気でまたふらふらしちまうんだろうし。」 真っ直ぐ向けた視線の意味を、木崎は正確に読み取ったらしい。 「……てめぇがそれを言うのかよ。」 吐き捨てられた言葉の意味は俺にはよくわからなかったけど、これだけはハッキリしている。 俺じゃ駄目なんだ。 誰とでもすぐに距離を縮められるあいつが、近づくなと一線を引いて逃げ出すような相手、初めてなんだよ。 そこにはきっと、何か意味があるはずなんだ。 「あぁ、くそっ!」 だんっ、とデスクを叩きつけ勢いよくその場に立ち上がった木崎は、ぎ、と俺を睨みつけながら思いっきり自らの髪を掻き乱した。 「……煙草吸ってくる!」 言うが早いか木崎は破壊せんばかりに勢いよくドアを開け、いつもより足早に部屋から消えていった。 「えっと、先生……?」 「ど、どうされたんでしょう、」 突然の木崎の行動に身をすくませ困惑する彗さんと飛鳥を横目に、俺は一瞬見えたあの余裕のない表情を思い起こして一人笑ってしまった。 「……頼んだぞ。」 聞こえないとわかっていても呟いてしまった俺の願いは、主のいなくなった準備室に誰にも聞かれることなく溶けて消えていった。

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