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第21話

「……何やってんだ、お前ら。」 うそ。なんでここに。 背後から聞こえてきた声に振り返れば、そこには先ほど数学準備室で言い合った、その人がいて。 先輩も僕もギクリと身体を強ばらせた。 「げ、木崎(きざき)。何でここに…」 互いに身体を離したところでもう遅い。僕と先輩がどんな話をしていたのかなんて、この人にはバレてしまっているだろう。ぎ、と細められた瞳が僕達に向けられる。 「学校に教師がいるのは当たり前だろうが。ったく、」 木崎先生は驚いて固まる僕と先輩に歩み寄り、拳を振り上げる。 反射的に俯きぎゅっと目を閉じたのだけど、思っていた衝撃はなく、コツンと優しい痛みが額に落とされた。 「おい、澤井。お前卒業式が終わってようと、今月いっぱいはうちの生徒だってわかってるか?あ?」 「あ、いや、これは。」 あ、思い出した。澤井先輩だ。 木崎先生ははぁ、と盛大にため息をつきながら、先輩の手から銀色のパッケージを奪い取る。 「とにかくこれは没収だ。」 「えー、マジかよ。」 「当たり前だろ、持ってる分全部出せ。それとも何か?反省文書きたいのか?」 「いや、勘弁してくれよ。」 素直にポケットから差し出された避妊具を受け取ってから、先生はもう一度先輩の頭を軽く拳でコツンと叩いた。 「てめぇももう成人だ、相手気遣って持ち歩いてたことは褒めてやる。けどな、TPO考えろ。」 「へいへい。すみませんでした。」 全く反省の色が見えない謝罪の言葉に、先生の眉間のシワが深くなる。でも、本気で怒っているわけではなさそうだった。 顔を顰めて不機嫌そうに見えたのは恐らく―― 「ったく、俺は藍原(あいはら)に用があるんだよ。わかったらさっさと消えろ。」 「へいへい。」 降参とばかりに両手を上げた先輩は、その手で僕の肩を抱き寄せ、耳元に顔を寄せる。 ――夜、抜け出してこいよ。待ってるから。 耳元で聞こえた小さな小さな囁きに返事はしなかった。 じゃあな、とひらひらと片手を振りながら部室棟を後にする先輩をぼんやりと見送れば、そこは再び静けさを取り戻した。 そういえば、この人から逃げてきてたんだっけ。 「……余計なお世話だったか?」 ちらり、気まずそうな視線がこちらに向けられる。 「ううん。助かった。」 うっすらと額に滲む汗。本人は上手く隠してるつもりかもしれないけど、いつもより険しい顔をしているのは多分荒い呼吸を隠すためだ。 校内走り回って探しに来てくれたの?なんて聞いてもきっと否定されるんだろうから、僕も口にはしないけど。 「荷物、生徒会室に置きっぱなしだから。」 僕が上を指さし階段をのぼり始めれば、先生は黙って後ろからついてくる。 もう逃がしてくれるつもりはないんだろう。 「僕は反省文いる?」 「……俺も学生時代素行がよかったとは言えないからな。他人の事とやかく言う資格ねぇんだよ。それに、お前らはちゃんと行為の意味をわかった上で行動してんだろ。」 本当に、教師らしからぬ人だ。 はみ出した行為を責めるわけじゃない。何も言わない、何もしない。 だけど、ただ黙ってそこにいてくれる。何をしても、何があっても、何度だって。 いつだって本当に必要な時だけ手を差し伸べようとしてくれる。 そしてそれは、僕だけじゃない。きっと誰に対してもそうなんだ。 この人は、この人になら、 「……先生。」 静まり返った生徒会室。手にしていた袋を机に置いて、僕は先生と向き合った。 先生はやっぱり何も言わず、僕の言葉を待ってくれる。 「さっきの、数学準備室の話。」 「ああ。」 「……僕、三者面談受けようと思う。」 「、」 目の前の瞳が見開かれる。 僕は一歩近づいて、その瞳を見上げた。 「面談、なんだよね?……そばに、いてくれるんだよね。」 一人で何とかしなきゃ。そう思ってた。誰にも迷惑をかけたくない。僕の大切な人達を、僕の事情に巻き込みたくない。 そう、思っていたけど。 「いつまでも逃げていたってしょうがない。ちゃんと向き合って戦わなきゃってわかってるんだ。……でも、」 僕は先生に手を伸ばし、シャツを掴んだ。 「……一人は怖い。怖いよ。」 震える手に大きな手が重なって、優しく握り返してくれる。 「そばに、いて。」 この人なら、この人に、近くにいてほしい。 入学してわずか一週間で被っていた猫を見破られても、この人は変わらなかった。脅すような真似をして、わがまま言って振り回して。それでも、この人は変わらずそばにいてくれた。 隠していた事実を知られた今ですら、この人はこうして僕の手を掴んでくれている。 この人になら、この人に、縋ってしまいたい。 「お願い、助けて。そばにい…っ、」 掴んでいた手を強く引かれて、僕は先生の胸の中に倒れ込む。腰に回された手が、僕をぎゅっと抱きしめた。 「……守る。ちゃんと、そばにいる。」 頭のすぐ上で聴こえた声に、僕は小さく頷いた。 こんな事、この人には何の得にもないのに。負担にしかならないのに。 それでも僕にまわされたその手は、離れるどころか痛いくらいに力強く抱きしめてくる。 おそるおそる見上げた先には真っ直ぐに僕を見つめる瞳があって、まぶたの奥がつん、とした。 「せんせ、ありがと。ごめんなさ…」 言いかけた言葉は、唇を塞がれて最後まで紡げなかった。 突然落とされた口づけは、僕の言葉も、思考も、こぼれかけた涙すら奪っていく。 じわり、感じる温もり。 離したくなくて、今度は僕から顔を寄せ唇を擦り合わせた。 一瞬、互いの瞳に互いを映して。けれど何も言わず瞳を閉じる。 交わした熱が溶けて等しくなるまで。僕達は無言のままに、互いの温もりを感じていた。

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