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第22話
唇を重ねた時間はどのくらいだったんだろう。
突然の出来事はまるで夢でも見てるみたいに現実味がなくて。一瞬だったのか、長い時間だったのか、それすら記憶にない。
だって、こんな事ありえないから。
触れ合っていた熱が離れても、僕達はしばらく時が止まったように互いを見つめ……そうして、何事も無かったかなように無言で離れた。
それは、あってはならない事だから。
だから、僕達はあの時間を本当に夢にしてしまうことにした。
「……少し早いけどお昼にする?」
「……あぁ、そうだな。」
何も言わず、聞かず、いつも通り。
その瞳に映っていた深い後悔の色も、唇に残る感覚も、全てに気付かないふりをして。
名前を呼ばれた気がして、僕は問題集から顔を上げイヤフォンを外した。
いつの間にかお風呂から戻っていたらしい先生が肩にかけたタオルで雑に髪を拭きながら僕の隣へ腰を下ろす。
「食器、風呂上がったら俺が洗うって言ったろ。」
「別にあれくらい僕一人でやるよ。……今日は晩ご飯作ってもらったしね。」
数時間前の野菜炒めの出来栄えを思い出し、僕はついつい笑ってしまった。
先生の顔がむすっと不機嫌に歪む。
料理初心者なら、まずは切って焼くという簡単な調理から。そんなわけで挑戦した基本中の基本である野菜炒めは、食材を焼く順番を指示する前に全てを火にかけてしまったおかげで、文字通り苦い結果となってしまったわけだ。
「ま、春休み中の課題だね。」
「へいへい。」
嫌そうに生乾きのくせっ毛を掻き乱す先生を横目に、僕は流しっぱなしになっていたポータブルプレーヤーの電源を落としてから再びローテーブルに広げていた問題集に視線を戻した。
ペンを走らせ計算問題に数字を書き込んでいく。先生は他にすることもないのか、ローテーブルに頬杖をつきぼんやりと数字で埋まっていく問題集を眺めていた。
「……春休み中なんだから少しくらい勉強サボってもバチは当たらねぇんじゃねぇの?」
「ふふ、教師がそれ言う?」
「お前の場合、少し息抜きするくらいがちょうどいいんだよ。……疲れたりとか、嫌になったりしねぇの?」
ぽつりと漏れ聞こえた言葉は、何故か妙に僕の中で引っかかった。
過去の事が脳裏をよぎって、答えを書き込む手が一瞬止まる。
「もう染み付いちゃってるんだよね。……逆にさ、勉強してないと怖い。サボったりしたら、誰かに殴られるかもしれないじゃん?」
先生が息を飲んだのが空気でわかった。
でも僕は視線を問題集に落としたまま、答えを書き続けた。
「僕にとってさ、勉強って生きていくために必要なものだったわけよ。楽しくも辛くもない、息をするのとおんなじ。……だからさ、いい大学行ってもっと勉強する意味、本気でわかんないんだよね。」
成績という評価、テストという順位がつけられるようになったその時から、僕の人生においてトップを取り続けることは当たり前だった。でなければ、僕は存在出来なかったから。
僕の中ではそれが当たり前で、両親が離婚するまでそれがおかしな事だと考えることすらしなかったくらいだ。
「やりたい事、ないのか?」
「自分の将来を自分で決められるなんて思ってなかったんだよね。……ほんと、どうしよっか。」
春休み前に提出した進路希望の用紙。
第一志望に近所の大学の名前を書きはしたものの、どの学部を受けるのかは白紙で提出していた。
小さく息を吐いて、問題集から顔を上げる。気がつけば、真剣な眼差しが僕を見つめていた。
――自分が何をしたいのかちゃんと考えとけ。
この人に言われた言葉は、ずっと僕の中に残ってる。
それでも答えは見つからない。
「ねぇ、先生はなんで教師になろうと思ったの?」
ふと湧いた疑問をぶつければ、目の前の視線は気まずそうにそらされる。
「……親がな、教師だったんだよ。親父も、お袋も。ついでに言えば爺さんも、そのまた爺さんもな。」
あさっての方向を見つめたまま、ぽつりと漏らされたのは初めて聞く話で。いつもより低く沈んだ声に、気がつけば僕はシャーペンを手放していた。
「周りは俺が教師になるのが当たり前みたいに思ってた。俺はそれが嫌で反抗してたけど、そこ以外学費出さねぇって無理やり教育学部行かされてな。……そんな時、両親が死んだ。」
思わず息を飲んだ。
交通事故で両親ともいっぺんに。そうだ、葬儀場で確かにそんな話を聞いた気がする。
あの時の僕は自分の事で精一杯で深く考えられなかったけど、それはどれだけ辛いことだったんだろう。
「顔を合わせりゃ言い合いになってた相手が急にいなくなって、目の前真っ白だったよ。背負ってた重圧が急になくなって、どうしていいのか分からなくなった。」
「……、」
かける言葉が見つからなかった。
先生はゆっくりと視線を僕へと戻して、その口元に小さな笑みを灯す。
「で、思ったんだよ。なんで俺あんなに反抗してたんだろって。教師の何がそんなに嫌だったのか、実際なって確かめてみるかってな。」
「……ひねくれてるね。」
「だな。」
自嘲する先生の中ではご両親の事をちゃんと『過去』にできているんだろう。両親の死を受け止めて、考えて、この人はちゃんと答えを出して今があるんだ。
「先生はさ、教師、むいてると思うよ。」
「……どうだろうな。わかんねぇ。」
先生はそう言うけど、生半可な気持ちで続けられる職業じゃないと思う。
大勢の生徒と向き合って、時には僕みたいな問題児を抱えて。めんどくさい、ダルいと言いながら、それでもしっかり手を差し伸べてくれる。
生徒の無理無茶を見逃してくれつつも、間違った道には絶対に進ませない。誰よりも愚直で不器用な人。
やっぱり、木崎総士 は教師なんだ。
わかっていたはずの事実がぎゅっと胸を締めつける。
この人は教師であるべきだ。教職者としての道を外れるような事、絶対にあっては駄目なんだ。
それは、この人を傷つけることになるから。
「……僕は、先生が先生で良かったと思うよ。」
あぁ、どうしよう。この感情、覚えがある。
言っちゃいけない。伝える事は負担にしかならない。
どうしよう、胸が苦しいよ。
上手く笑うことができなくて、僕はコーヒーを入れるねと立ち上がった。
背中に視線を感じたけど、僕らは互いに無言のまま。
無意識に、自らの唇に伸びそうになった手を僕はぎゅっと握りしめた。
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