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第24話
例えばひとつの物語を作るとして、音楽家とフィギュアスケーターと普通の高校生がいたとする。
主人公に誰を選ぶか、誰と恋に落ちるのか。もし僕が物語を作るなら、普通の高校生が主人公やヒロインになることなんて絶対にありえない。
「帰ったぞ。」
「あれ、いつの間に。」
耳元で聞こえていたピアノの音が突然片方遠ざかっていって、僕はようやくこの部屋の主の帰宅に気がついた。
スウェットにTシャツなんてラフな格好をしていても、先生はひと仕事してきたばかりだ。帰ってくる時間を見計らって夜食を温めておこうと思っていたのに、どうやら本に集中しすぎて時間の感覚が飛んでいたらしい。
はめていたもう片方のイヤホンも外して、ローテーブルに投げだす。
「ごめん、すぐ夜食用意するね。」
あわてて作りおいていたおかずを温めようと文庫に栞を挟んだけど、手で制されてしまった。
「いい。……それくらい自分でする。」
夜の見回り当番を終えお疲れなご様子の先生は、真っ直ぐキッチンに向かって冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。
その場で栓を開け、一口。缶を傾けながらロールキャベツの入っていた鍋を火にかける。
「……なぁ、お前何やらかしたんだ?」
ガチャガチャと食器の音と共に聞こえてきた問いは身に覚えの無いもので、僕は思わず首を捻った。
「櫻井様、御立腹だったぞ。」
「あー。」
今朝の事が脳裏に思い起こされ、思わず苦笑い。
結局あの後色 とは顔を合わせなかったけど、どうやら点呼に来た先生に当たり散らす位には不機嫌にさせてしまったらしい。
「優先順位を間違えちゃ駄目だよって。僕なんかより飛鳥 を大事にしなきゃだよって……言っただけなんだけどね。」
正直に白状すれば、先生は温めたロールキャベツとビールを片手に盛大にため息をついた。
「そりゃ櫻井が怒るわけだ。どー考えても藍原 が悪い。」
テーブルを挟んで僕の向かいに腰を下ろした先生は、じと、と冷めた視線を投げかけてくる。居心地が悪くて僕はテーブルに置いていた文庫小説を再び開いた。
飛鳥が最近気に入って読んでいるらしい恋愛小説。病気で入院しているフィギュアスケーターの女性と、事故で肩を負傷したヴァイオリニストの男性のお話。普段あまり読まないタイプの話だけど、飛鳥の熱心なプレゼンとどこかで聞いたことのあるような主人公達の設定が気になって、シリーズの一巻を飛鳥から借りてきた。
チクチクと刺さる視線から逃げるように手元の文字へと視線を落とす。
「お前は何でそう自分を卑下するかねぇ。」
「……べつに、そういう訳じゃないよ。だって事実でしょ?色の一番は飛鳥なんだから。」
謙遜でも嫌味でも何でもない。僕はただ事実を述べただけだ。
それでも色も、今目の前にいるこの人も口をへの字に曲げ眉間に皺を寄せる。僕にはそれが理解できなかった。
「そもそも、お前櫻井に十数年片想いしときながら、それを伝えもせずに美鳥 に譲ったろ。」
「だって、飛鳥相手じゃ僕の出る幕なんてないじゃん。」
「それを卑下っつーんだよ。」
先生の手が、テーブルに転がっていたイヤホンにのばされる。そういえばさっき慌てていて電源を落とすのを忘れていた。
先生は自分の片耳にイヤホンを押し込み、そこから聴こえてきた音にやっぱりなと、ため息を漏らした。
「こうやって毎日櫻井の曲聴くくらい好きだったんだろうが。お前がちゃんとそれを伝えとけば、今が違ってたかもしれないだろ。」
そんな事絶対にありえないんだけど、それを言うと眉間のしわがさらに深くなりそうだったから、僕は黙ってテーブルに転がっていたもう片方のイヤホンを耳に入れた。
色の作ったピアノ曲を集めたアルバム「Color」。一曲目のSky blueが聴きたくて流していたけど、今は最後の曲が流れていた。Midoriと名付けられたその曲は、多分色にとって最も大切な曲。
「この曲覚えてる?」
「ん?あぁ、美鳥の最後の大会の曲だろ。」
軽やかに跳ねるピアノの音が片耳から広がっていく。
僕も先生もスケート部として思い入れのある一曲だ。多分互いの脳裏には飛鳥が銀盤の上を滑る同じ光景が浮かんでいるんだろう。しばらく無言で二つに分けたイヤホンに耳をすませる。
「……この曲ね、色は何も言わないけど、たぶん初恋の従姉弟を思って作った曲なんだよ。」
「あー、噂の緑 嬢な。」
柔らかい音色で始まった曲は気がつけば不穏な音に変わっていた。二転三転する旋律はぐちゃぐちゃに空気を掻き乱し、翻弄される。けれど、最後は泣きたいくらい優しい音が身体を震わせて終わるんだ。
たぶんきっと、色のたくさんの想いがつまった曲。たった一人を想って作った曲。
「……でもね、これはもう緑ちゃんじゃなくて美鳥飛鳥のための曲なの。飛鳥はね、Midoriを自分の曲にしちゃったんだよ。」
同じ名前だからって気になって、sikiの曲に魅せられて、Midoriを自分のスケートで表現したいって。そんな純粋でひたむきな気持ちと飛鳥の表現は、あっという間に色の心を動かした。
Midoriはもう飛鳥の前以外で奏でられる事はないんだろう。
最後の和音を響かせ、ぎゅっと切ない余韻を残して消えていった音。
二つに分かれたイヤホンからは再び一番初めの曲が流れ始めた。
僕の好きな曲。夏の青空みたいな、爽快な曲。空の澄んだ青が広がる曲。
「この曲、選手引退してアイスショーやり始めた一番最初に美鳥が選んだ曲だろ?たしか、藍原が好きな曲だからって。」
「そうだよ。色と飛鳥が……二人の関係が上手くいったお礼代わりにって、二人で選んでくれた曲。」
色が、幼なじみでもある従姉弟を思って曲を作った時、僕の心臓はビリビリに裂かれたみたいに苦しかった。
Midoriが飛鳥の曲になった時、泣きそうなくらい羨ましかった。
僕もいつか、僕だけの曲が欲しい。僕だけを見てほしい。そう思ってたけど、駄目だった。
「……僕にとって特別な曲ではあるんだけどね。何十回、何百回聴いたって、Sky blueが僕だけの曲になる事は無いの。色のColorの中にはね、藍色は入ってないんだよ。」
誰より近くにいたのに、色が僕を見てくれる事はなかった。
そりゃそうだよ。僕には何もないんだから。
「色も飛鳥もインターネット百科事典に名前が載ってるような凄い人達なんだよ?友人としてそばにいるだけでも奇跡なんだよ。」
住む世界が違う。なんて言ったら色も飛鳥も気を悪くしちゃうんだろうけど、僕の心の片隅にはいつだってその事実があった。
好きも、寂しいも、何も言えるわけがない。僕の世界は二人みたいにキラキラ輝いて綺麗なものじゃないんだ。嘘と虚勢と虚無で塗り固められた暗い世界。
大好きだからこそ、何も言えない。これ以上の深い繋がりを求める事は、色にとっても飛鳥にとっても、そして目の前のこの人にとってもマイナスにしかならないんだから。
……わかってるのに、最近の僕はどうにも上手く距離が取れなくて困る。
僕はイヤホンを外して、再び手元の文字へと視線を落とす。本の中ではフィギュアスケーターとヴァイオリニストが互いに惹かれはじめていた。
表現者 同士の恋。それは決して平坦な道のりの恋ではないんだろうけど、誰もが憧れ応援したくなる恋だ。
「僕はさ、物語で主役をはれるような人間じゃないわけよ。むしろ読者として見守って、応援したいんだよね。」
文字を目で追いながら独り言のように呟けば、向かいから深いため息が聞こえた。
「お前、案外馬鹿だよな。」
「は?」
聞き捨てならない言葉に思わず顔を上げれば、ピンっとおでこを弾かれた。
額を押えて何するんだと睨みつければ、先生は何故だか優しく笑う。
「藍原、早起き苦手じゃなかったよな?」
「へ?う、うん。」
「じゃ、明日付き合え。四時起きな。」
「はぁ?」
なんでそうなるの?疑問を言葉にする前に、ごちそうさまの声に遮られてしまった。
軽く手を合わせた先生は空になった食器とビールの缶を手にその場に立ち上がる。
どうやらこれ以上話をするつもりはないらしい。
「明日早いし消灯時間過ぎてんだから、そろそろ寝ろよ。」
そう言って僕に背を向けキッチンへと逃げられてしまえば、どうする事も出来なかった。
急展開過ぎてついていけない。何があるっていうんだろ。
疑問符で埋め尽くされた頭ではどのみち物語に集中なんて出来そうになかったから、僕は無言で食器を洗い始めたその後ろ姿を見ながら読みかけの本をパタリと閉じた。
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