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第26話

先生の手がジャケットの胸ポケットへとのび、煙草を取り出す。 下手な照れ隠し。 ほんの少し僕から離れて、背を向けて。カチャリとライターの蓋を開く小さな音が背中越しに聞こえた。 「お前はさ、もっと声上げろ。」 薄暗い中、先生の手元に小さな明かりが灯る。ふぅ、と吐息と共に煙が空へと消えていった。 「櫻井と美鳥(みどり)が今の関係に落ち着いたのは、あいつらがちゃんと声にして手を伸ばした結果だろ。」 濃紺……いや、藍色の空に消えていく煙を先生の背中越しに眺めながら、僕は手元のタンブラーに口をつけた。カフェオレのほろ苦さが喉を通り抜けていく。 「お前が考えてる以上にスカイブルーは藍色だし、櫻井はお前の事を思ってる。声あげて手ぇのばせば……今だって届くかもしれないぞ。」 穏やかな波音に重なって、先生の声が僕の鼓膜を優しくふるわせる。 なんでだろ。胸がきゅっと締め付けられて、気を抜けば瞳から涙がこぼれ落ちそうだった。 ずっと、ずっと背中を見ていた。 いつだって迷いなく真っ直ぐ進んでいくその背中が眩しくて、置いていかれないように必死だった。……そう思ってたのに。 僕はちゃんと色の隣に立てていたのかな。飛鳥みたいに隣にいて、色の瞳に映ってたのかな。 もしかしたら世界は僕が思っていたよりも優しいものだったのかもしれない。この空を見ていると、そう思えた。 「……届いた、かもしれないね。」 少しだけこちらを振り返った先生に、僕はちゃんと笑えていただろうか。 「色のことはね、もう本当にいいんだ。ちゃんと自分の中で納得してるし、色が飛鳥を選んでくれて嬉しいって思ってる。」 本当だよ?と念押ししたけど、先生は納得していないようだった。 携帯灰皿に雑に煙草を擦り付けしまいこんだ先生は、何か言いたそうに開いた口をつぐみ、自らのくせっ毛をかき乱す。 「……ありがと。」 僕にはもう、この優しさだけで十分だった。 もう、色の背中を追いかけなくても、隣にいなくても、僕はちゃんと歩いていける。 無理やりでこじつけな空は、それでも泣きたいくらい綺麗な藍色(スカイブルー)だったから。 何となくまっすぐ視線を向けられなくて、僕は手元のカフェオレを一口。それからまた、空を見上げた。 「ねぇ、このまま日の出見ていこうよ。この空も綺麗だけどさ、朝日もやっぱり綺麗だと思うし。」 「……ああ。そうだな。」 それ以上は何も言わず、何も聞かず。 視界の隅に隣にいる存在を映しながら、僕らはただ黙って藍色から朝焼けの茜色へと移りゆく空を長い時間眺めていた。 水平線の向こうに太陽が顔を出し、朝焼けの空が次第に明るさを増す。藍色の深みがだんだんと薄らいできて、青空に変わったのを見届けてから、僕らはようやく車内に戻った。 手にしていたタンブラーをドリンクホルダーに置いて、隣でエンジンをかける手をぼんやりと見つめる。 帰りたくないな。 そんな子供みたいな感情に内心苦笑いしながらシートベルトをしめる。先生はそれを横目に確認してから……それでも、車を動かさなかった。 先生の手がハンドルではなくカーオーディオへのばされる。その指がスイッチを押せば、車内に音楽が流れ始めた。 「……え、」 聞き覚えのあるピアノの音。 まって。なんで。 僕のCDは先生の家に置いてきた。だとすればこれは。 思わず目を見開いて隣を見れば、先生は気まずそうに視線をさまよわせくせっ毛を掻き乱す。 「えっと、だな。CMで流れてたのと同じ曲流しながら同じように海沿い走らせてみたいなと……数年前、この車買った時にCDも一緒に買ってだな、」 「へ、」 むすっと口をへの字に曲げてそっぽを向いた先生の言葉が一瞬理解できなくて、言葉を失った。 えっと、つまり。 「……俺も、昔からよく聴いてたんだよ、この曲。」 ピアノの音と共に耳に届いた事実に、僕は笑いをこらえきれなかった。 ぷはっ、と漏れた息は止められず、くつくつとお腹を抱えて身悶えする僕に、先生の眉間には深い皺が刻まれる。 「櫻井には絶対言うなよ。」 「ふふっ、わ、わかってるって。ふ、くくっ、」 笑いに腹筋が痙攣してそれ以上は言葉にならなくて。先生はじっとりと僕を睨みつけてからゆっくりと車を発進させた。 僕の笑いがおさまらない中動き始めた車は、何故だか帰り道とは逆方向へと進み始める。 お腹を抱えたまま視線で問えば、ふ、と優しい笑みが返ってきた。 「少し、遠回りしていこうぜ。」 無骨な手が僕の頭にぽんとのせられ、優しく髪を掻き乱す。 この人のこういう所、ほんとずるい。なんでこう、何も言わなくても伝わっちゃうんだろ。 「なんなら釣りでもするか?」 「え、行きたい!」 「へいへい。そんじゃ行きますか。」 ピアノの音を聴きながら、車は海沿いの道を速度を上げて走り始めた。 大好きな曲。いつもはどこまでも広がる青空が見えていたはずなのに、 「ん?どうした?」 「……ううん。なんでもない。」 いつもと同じ音のはずなのに、この人の隣で聴くSky blueは僕の中で切なく甘く鳴り響いて、僕の瞼の裏にはあの藍色の空が広がっていた。

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