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第27話

深夜、いつものように喉の乾きに目が覚めて水でも飲もうとベッドに身を起こした。 ライト代わりのスマホを片手に物音を立てないよう布団を抜け出したところで感じた違和感。 「……あれ?」 リビングへと続くドアの隙間からわずかに明かりが漏れていた。 消し忘れかもしれない。念の為そっとドアを開けば、ソファを背もたれにローテーブルに向かうくせっ毛が目に飛び込んできた。 「先生?」 「っ、」 何か書き物をしていたらしい先生は、僕の声に慌ててテーブルに広げていた用紙をかき集め裏返す。 「あ、ごめん。テスト問題とか作ってた感じ?」 「あぁ、まぁな。悪い、起こしちまったか?」 「ううん。喉乾いちゃって目が覚めただけ。」 僕はなるべく先生の方を見ないようにしてキッチンへ向かう。 よくよく考えなくても、教え子が目の前にいたんじゃできない仕事も沢山あるはずだ。ましてや今日は結局遠出して人生初の釣りに連れていってもらったから一日中先生を付き合わせちゃったし。 「夜食でも作ろっか?」 せめてこれくらいはと口にはしてみたものの、先生は首を横に振る。 「いや、俺ももう寝るところだったから。……俺も、水貰っていいか?」 「はーい。」 先生はかき集めた書類をファイルの中にしまい込む。どうやら本当にもう寝るつもりらしい。 だとすれば僕は早いとこ部屋に戻った方がいいんだろう。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、水切りラックに置いていたそれぞれのマグカップに注ぐ。 シンプルな素焼きのカップと黒猫のカップ。僕はソファへ腰を下ろした先生に素焼きのカップを手渡した。そのまま僕はその場で水を飲み干して部屋に戻ろうとしたのだけど、 「あ。」 カップに口をつけようとしていた先生が、突然顔を上げ僕を見上げる。 「藍原(あいはら)、……おめでとう。」 一瞬、言葉の意味がわからずにその場に固まってしまった。 照れ隠しなのかくせっ毛を掻き乱すその視線を辿り、テレビ台の隅に置かれた時計がゼロを並べていた事に気づいたのと、ルームウェアのポケットにしまいこんでいたスマホが振動したのはほとんど同時だった。 「そっか、忘れてた。……ありがとう。」 手にしていたカップをテーブルに置き、ポケットからスマホを取り出す。そこには思った通りの人からのメッセージが届いていた。 ――起こしちゃったらごめんね。お誕生日おめでとう! 可愛い絵文字とスタンプと共に飛鳥から送られてきたメッセージを開いたと同時に、もう一件受信を知らせる振動。 ――誕生日おめでとう。 絵文字も可愛げもない、たった一言。 対称的な二つのメッセージに思わず笑ってしまった。 「あいつらもマメだな。」 「あいつら、というより飛鳥がマメなんだよ。(しき)は十二時ちょうどにメッセージ送ってくるなんて絶対しないもん。……飛鳥が隣にいない限りね。」 酷い年には忘れてたって一週間遅れでメッセージを送ってくるような奴なのだ。間違いなく二人は今どちらかの部屋に一緒にいるんだろう。 「あいつら、」 「寝坊しないといいけどねぇ。」 明日いや、日付が変わって今日は、月に二回行われるスケート部のアイスショーの日。夜更かしはほどほどにねとお礼と共にしっかり釘をさしたメッセージを飛鳥に返信してやれば、わかってる、とすぐに色から返信がきて僕はやっぱり笑ってしまった。 見て見ぬふりをしなければならない先生は、こめかみを押え深い息を吐き出す。 まあまあと肩を叩けば、うなだれていたはずの先生が手にしていたカップをテーブルへ置き、ちらりと僕へ視線を向ける。 「……大丈夫か?」 一瞬、何を言われたのかわからなかった。 心配されるようなこと何かあったっけと眉をひそめれば、先生の視線は僕の手元のスマホへと向けられ、そこでようやく思い至る。 「ああ、大丈夫だよ。色の事はもう本当にいいんだって。」 的はずれな心配に僕は思わずふきだして、先生の肩をまた叩いた。 確かに、少し前の僕なら寂しさを感じていたのかもしれない。 けれど今は二人で同じベッドの上にいるだろう友人達を、微笑ましいなと思っただけだ。 そこに嘘偽りはないのに、先生から向けられる視線には心配の二文字が滲んでいた。 本当はすぐ部屋に戻るつもりだったんだけど、自分の事のように辛そうに眉を歪めるその人を放っておけなくて、僕は先生の隣に腰を下ろした。 「もう、本当の本当に大丈夫。……たぶん、僕はきっと誰かにそばにいてほしかっただけなんだよ。」 ずっと感じていたのは、多分失恋の辛さじゃない、寂しさだった。僕には安心して息をはける場所が色のそばにしかなかったから。 その場所にいたくて、色をずっと追いかけてきたんだ。僕の事に巻き込んで傷つけたくないって距離を取りながらも、いつか振り返って僕に手を伸ばして、ずっとそばにいてくれないかなって淡い期待と矛盾を抱えて、その背中をずっと見ていた。 でも、それももうおしまい。 だって僕はもう知っているから。 世界は、僕が思っていたより優しいんだって。 「別に一番近くにいられなくても、色も飛鳥もそばにいてくれるわけだしね。そんな友人が二人もいてくれるなんてもう奇跡っしょ。」 一番になれなくても、望めばそばにいてくれる人達がいる。その事実があるだけで大丈夫。 ……また傷ついても大丈夫。 僕は、ちょっとだけ隣に向き直っていまだに心配そうに僕を見つめる先生に笑ってやる。 「……ねぇ、先生。誕生日プレゼントちょうだい?」 「ん?なに…」 先生が言葉を紡ぐより早く、僕は身を乗り出し、手を伸ばしてその唇を塞いだ。 目の前の瞳が大きく見開かれる。触れ合う唇から困惑の吐息が漏れた。

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