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第30話
「みなさーん、こーんにちはー!」
リンクの中央で僕が手を振りながら声を張り上げれば、やまびこみたいにこんにちはーと元気な声が返ってくる。氷のリンクが熱気に包まれている、その不思議な空気が心地いい。
「おおっ、みんな元気ー。でももっと元気にいってみよう!こーんにーちはー!」
こーんにーちはー!
お約束のやり取りで始まる彩華高校スケート部によるアイスショー。
僕の仕事はショーの進行だ。
僕達のショーのために一般のお客さんはこの時間リンクを使えない。事前にポスターで掲示してるし、当日は入場の際にアリーナのスタッフさんが確認してくれているみたいだけど、まずは僕達の為にリンクを空けてくれた事に対する謝罪と感謝から始めることにしている。
僕達が彩華高校のスケート部である事、小さな子達の為にそもそもフィギュアスケートとはどういうものなのかという簡単な説明。そしてこれから演技をするのは半年前まで選手として活躍していた美鳥飛鳥 である事。最後に観覧の際の注意事項と、撮影は大歓迎だから飛鳥の事をどんどん宣伝しちゃってねとお願いまでするのがお決まりになっている。
もう何度となくこなしているステージだ、リハーサルなしでもここまでは問題なくこなせるわけだけど。
「えっと、それじゃあそろそろ始めちゃおうかな?」
わぁっ、と歓声の上がる客席とは対照的に僕は内心ひやひやしていた。
始めていいんだよね?
インカムから声が聞こえてこないということは問題ないって事だとは思うけど。
「一曲目は先月発表したクラシック曲の華麗なる円舞曲、作品34の3……って言うと堅苦しいしわっかんないよね。というわけで、別名なんのワルツかわかる人いるかにゃー?」
マイクを握る手とは逆の手で軽く拳を握り顔を撫ぜる仕草をすれば、正解を叫ぶ子供達の元気な声でアリーナ内が満たされる。
やっぱりインカムに反応がないところをみると、このまま続行で問題ないみたいだ。
さてさて、何が起こるんだろ。
鬼が出るか蛇が出るか、ここからは僕も観客として見学させてもらって……いいんだよね?
「それじゃあ、我が部が誇る最高の演技と音楽を楽しんでいってねー!」
お決まりの言葉と共に客席に手を振りながら僕はリンクを後にする。
いつもならこのタイミングでスタッフ用の出入口から飛鳥が元気に走ってきてバトンタッチするんだけど……
ギィ、と控えめな音を立ててスタッフ出入口が開いたと思ったら、恐る恐る顔をのぞかせる飛鳥と、
「……なに、あれ。」
思わず突っ込まずにはいられない光景がそこにはあった。
猫。うん、猫だ。
前回と同じく黒い猫耳とモコモコ素材の黒い衣装を身につけた飛鳥と、もう一匹。頭が重いのかよろよろと右に左にふらつきながら飛鳥に支えられ……いや、介助されながらスタッフ出入口から姿を現したのは黒猫の着ぐるみを着た何かだった。
リンクから戻ってきた僕の目の前を、右に左に頭を揺らしながら飛鳥に肩を支えられ通り過ぎていく。
ペロリと舌を出した愛嬌のある猫の顔が一瞬僕の方にじ、と向けられたけど、いや、怖いよ。なんなのこれ。
客席もいつもとは違う様子にざわつきはじめた。
先生は直前まで僕と一緒にいて、今もお客の誘導をしている。彗 さんは音響室で音響を担当しているし、飛鳥は今目の前で黒猫の介助をしている。
だとすればあの中身はもしかしなくても。
「……嘘でしょ、色 なの!?」
可愛いポーズをとるでもなく、リンクに出るでもなく、ゆらゆら頭を揺らす黒猫、もとい色は飛鳥に支えられながら僕の前を通り過ぎアリーナの隅の方へと歩いていく。
その背中を目で追って、
「あ、」
黒猫の先に僕は見つけてしまった。
会場に入ってすぐにショーを始めたし周りに溶け込むように白い色をしていたから気づくのが遅れたけど、色 の向かう先にあるのは、あれは……真っ白なアップライトピアノ。
ごくりと息を飲んだ。
いまだ何が起きるのかとざわつく会場。でも、これから何が始まるのか僕は気づいてしまった。
飛鳥の手を借り、不気味な黒猫の着ぐるみがピアノ前に腰を下ろす。
ペロリと舌を出した愛嬌のある顔に隠されてはいるけれど、その中では真剣な瞳が鍵盤を見つめているに違いなかった。
とんでもない事が始まろうとしてる。
僕は手にしていたマイクをぎゅっと握りしめた。
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