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第31話

ピアノまで(しき)を送り届けた飛鳥(あすか)は、そこに置かれていたバレーボールサイズのピンクのゴムボールを手に取り、回れ右をしてまた僕の前を通り過ぎて行った。すれ違いざま僕の方へ笑顔を向け、ヒラヒラと手を振りながらリンクへと勢いよく滑り出していく。 その様子をおそらく着ぐるみの中から確認しているのであろう色は鍵盤に指を……置こうとしてその場に固まった。 ペロリと舌を出した可愛い顔が、大きな肉球のついた手をじっと見つめている。 やがて肉球の手を太ももに挟み込み、思いっきり引っ張った。 あ、やっぱり外すんだ。 左右共に肉球のついた手袋を外して足元に投げ捨てた黒猫……と呼んでいいのかどうかも怪しくなってきた生き物は、今度こそ鍵盤に指を置きリンクの中央を見つめる。銀盤に立つ飛鳥と鍵盤の前に座る色。二人は互いに視線を交わし、小さく頷いた。 黒猫に扮した飛鳥が手にしたボールを胸に抱き、リンクの中央でピタリと静止する。 そのタイミングで色の指が鍵盤を滑り、軽快な音が会場に流れ始めた。 毎月二回行われているスケート部のアイスショーは三部構成になっている。 一曲目は先月最後に演技した曲と同じものに多少のアレンジを加えて再披露。初めは月ごとに全て新しい曲をと頑張っていたけど、毎月何曲も作って、演技構成を考えて、さらには衣装もお願いしてとなると全員の負担が大きかったし、何よりせっかく作った作品をお客さんがたった二回しか見る機会がないなんてもったいないと思ったから、僕から提案させてもらった。初めこそ同じ曲で申し訳ないと飛鳥は恐縮していたけど、常連さんからは先月との違いを見つけたり、公演を見逃して悔しい思いをする事がなくなったと、わりと好評だ。 その後は飛鳥を休ませるために僕がトークや時にはクイズで場を持たせて最後に新作の演技になる。 つまり一曲目は先月とほぼ同じ。毎回訪れている常連さんや僕にとっては一度は目にしているもののはず、なんだけど。 その音を聞いた瞬間、思わず息を飲んだ。 滑るように軽快な音が空気をふるわせ、広い会場を音で満たしていく。 先月と同じ曲のはずだ。それなのに全然違う。 響く音は鼓膜どころか身体全体を震わせる。先程までざわめいていた会場全体が急にしんと静まり返って、時を止めてしまったかのようだった。 ショパン作曲華麗なる円舞曲、作品34の3。猫のワルツと称されるその曲は、鍵盤の上を猫が走り回っているみたいに軽快でリズミカルな曲だ。 そこにsikiの手によりアレンジが加えられ、原曲よりもさらに緩急のある曲に仕上がっている。 いつもはのんびりマイペース、だけどひとたびスイッチが入れば軽快に艶やかに。まるで誰かさんみたいな猫が、無邪気にじゃれて走って伸びをする。そんな光景が浮かぶ曲だ。 ぴん、と澄んだ音がリンクに響き渡れば、誰もが言葉を失い目の前に響く世界に引き込まれていった。 だけど、目を閉じて耳をすませて音に酔いしれるなんて事は許してもらえない。 目の前に広がる光景に観客は瞬きすらできず、誰もがリンクを駆け回るもう一匹の黒猫を見つめていた。 ピンクのゴムボールが高く宙を舞えば、それを追いかけるように猫に扮した飛鳥の身体も軽やかに宙を舞う。 氷上を駆け回りながら、まるで毛糸玉にじゃれつくように、ボールは飛鳥の肩から腕を通り、手の平まで滑り落ちればまた宙へと投げられる。高く舞い上がったボールをクルリとスピンした飛鳥がキャッチすれば、会場からはわっ、と歓声があがった。 先月とは違い、時に観客席にボールを投げて子供達とキャッチボールまでして本当に遊んでいるみたいだ。 だけど僕は知っている。飛鳥はこの演技のために、女子新体操部に一週間仮入部までさせてもらって必死でボールの使い方をマスターしたんだ。 人の心に響く演技を。その為にはどんな事でもチャレンジしたい。飛鳥の純粋な思いと努力は常に新しい表現を生み出している。 美鳥飛鳥だから出来る最高の演技。 自信を持って言う。ここにいるのは、世界一の音楽家と世界一のスケーターだ。 時折互いに視線を向け、無言の会話をしながら小さく頷いて。音とスケート、バラバラだったものが一つの作品になっていく。他の誰でも駄目なんだ、この二人だから創れる作品。 見ていればわかる、聴けばわかる。 ずんっと重低音が胸に響いてピリピリと身体を震わせるみたいに、僕は衝撃で瞬きひとつ自由にできなかった。 僕は今、世界一綺麗な光景を目にしている。 ピアノの音が鳴り止んでボールを抱えた飛鳥が動きを止めても、僕も会場もしばらく二人が作り上げた世界から抜け出せず、呼吸すら許して貰えなかった。

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