38 / 74

第32話

余韻の抜けきれないまま飛鳥とバトンタッチした僕は飛鳥が次の曲の準備をするための繋ぎとして再びリンクに立った。 頭が重くて一人じゃ動けないのか、それともやること無くて暇なのか。ピアノに座ったまま退場する素振りをみせなかった黒猫らしき着ぐるみの(しき)をまき込んで、当初の予定を大幅に変更して突発でイントロクイズなんてやってみる事にしたんだけど、これが予想以上に大盛況。会場内は飛鳥の演技の時とは違ったテンションに包まれていた。 『何曲弾かせる気だてめぇは。』 時折インカムから聞こえる色の悪態を完全に無視しながら進行すること十数分。 色のピアノを近くで聴きたいとうずうずしながら飛鳥がスタッフ出入口からこっそり顔を出す姿を目撃してしまったので、僕のMCとしてのお仕事はここまでで大丈夫そうだ。 「それじゃあクイズはここまで〜。演奏してくれた猫の…しーちゃんに拍手〜!」 わぁ、と広がる拍手の波。誰がしーちゃんだとインカム越しに悪態をつきながらも、黒猫のしーちゃんはご丁寧に足元に投げ捨てていた肉球の手袋を片手だけつけ直し、向けられる拍手に手を振って答えた。ペロリと舌を出した可愛い顔のその下では後で覚えてろよなんて物騒なセリフを吐いていたけれど、そこはもちろん無視だ。 割れんばかりに注がれていた拍手の音は次第に凪いで、客席がそわそわとしはじめる。 顔だけ覗かせてこっそりと色のピアノを聴いていた飛鳥がその姿を完全に表せば、ざわめきはいっそう大きくなった。 着物のように前を合わせ、腰の部分を濃紺の帯と金の飾り紐で締められているオリエンタルな衣装。和装の生地ではなく動きやすいようにとオーガンジーの軽くて柔らかな薄青の布地に、裾の部分は着物のように長くはなく濃紺のボトムのウエストを隠すくらいの長さしかない。それでも、床につきそうなほど長く伸びた袖と着物に施された花の刺繍が飛鳥に和の空気を纏わせる。 いつもより高い位置でまとめられた亜麻色の髪は、帯に締められているのと同じ飾り紐で縛り上げられていた。 先程の黒猫の扮装とはまるで違う衣装、空気。 ここからはまた、美鳥飛鳥の世界だ。 「それじゃあ本日最後の演技、最後の最後まで楽しんで行ってねー!」 観客に手を振りながら、ゆっくりとこちらに滑ってきた飛鳥と氷上でタッチ。薄青から濃紺、紫へとグラデーションになっている衣装の袖がふわりと揺れた。 お疲れ様、頑張って、と互いに言葉を交わして僕はリンクから出る。観客の視線はすでに氷上に立つ飛鳥へと注がれていた。 羽織った衣装をはためかせながら氷の感触を確かめるように滑る飛鳥を、僕もフェンスに身体を預け、観客として見つめる。 「おつかれさん。」 ぽん、と僕の頭に手をのせ雑に髪をかき乱すその手を、僕は一瞬だけ見上げた。 観客整理は大丈夫なのとか、今日の事どこまで知ってたのとか。言いたいことは色々あったけど、今はこれから目の前で起こるだろう事に一秒でも目を反らせたくなかったから。 だから、僕も木崎先生もチラリと目を合わせただけで、無言でまたリンクへと視線を向ける。 再びしん、と静まり返った会場。 ここにいる大勢の観客の視線全てが、リンクの中央で瞳を閉じて俯く美鳥飛鳥に注がれていた。 俯くその顔が勢いよく上げられる瞬間、ぴん、と響くピアノの音。 オリエンタルな優しい音の中に時折空気を切り裂くみたいに鋭い音が落とされる。 飛鳥が腕を突き出す、回る、跳ぶ。激しく動くタイミングにピタリと合わせて響く音は、柔らかな空気をぴりりと引き締める。 多分、今回は僕の父さんの葬儀等色々あったせいでレコーディング出来なかったから、生音なんて無茶な事をする羽目になってしまったはずなんだ。 二人には今日この日までに十分な時間は取れなかったはず。それなのに、色の音と飛鳥の演技は初めから二つで一つの作品であるかのようにピタリと合っていた。 飛鳥がどう動くのか、動きたいのか。色の音がどう響くのか、響かせたいのか。互いに曲と演技を何度も何度も確認して、表現したいものを擦り合わせてきたんだろう。 「……すげぇな。」 隣で声が聞こえた声に、僕はリンクを見つめたまま無言で頷いた。 飛鳥の身体がくるりと回れば、長く伸びた着物の裾がまるで花びらのように華やかに円を描く。 どこかノスタルジックな音の中に凛、と響く一音。懐かしいようで斬新な音の中、飛鳥が舞い踊る。 日本舞踊に能楽、歌舞伎、さらには空手部、薙刀部の見学まで。いつか演技に取り入れられるかもしれないと、常にありとあらゆるものを研究し吸収し、それが今日に生かされているんだ。 そんな飛鳥の表現を支える色の音も日々進化しているのがわかる。 ゾクリと背筋が震えた。 たった二人の人間が、スケート場を満員にするほど多くの人の心を動かしている。その事実に息を飲む。 表現者(アーティスト)二人が出会ってしまった。惹かれて、共鳴してしまった。 そうして今ここにいる。 それはどれほどの確率で、どれほど凄いことなんだろ。 「……奇跡、だよね。」 そう思わずにはいられなかった。 「こんな光景目の当たりにできるなんて、奇跡だよ。」 思わず呟けば、隣に立つ先生は何故だかふん、と僕の言葉を鼻で笑い飛ばした。 「奇跡ねぇ。やっぱお前はわかってねぇな。」 何が、なんて問いつめる事は出来なかった。 氷上で飛鳥の身体が宙を舞い、観客からわっと歓声が上がる。いつの間にか色のピアノに合わせて会場中から手拍子が巻き起こり、 盛り上がりは最高潮だった。 ストンと地に降りた身体はぴん、と響くピアノの一音を合図にくるりと回る。ふわりと着物の袖をなびかせ、氷上に一輪の花が咲いた。 最後にはリンクに膝をつき胸に手を当て、まるで祈りを捧げるように空を見上げて動きを止めれば、ピアノの最後の一音がリンクの空気をふるわせる。 その瞬間、会場を満たしていた手拍子は拍手喝采に変わった。 幻想的な光景に胸が熱くなる。 飛鳥の立つその場所が別世界みたいにきらきら輝いて見えた。 凄い。 やっぱり飛鳥は凄い。色は凄い。 これが奇跡じゃなくてなんだって言うんだろ。二人の表現者の才能と、それを上回る努力と、思いが生み出した奇跡。 僕は鳴り止まない拍手の音を聴きながら、呆然と目の前の世界を見つめていた。 曲が終わって、その場に立ち上がった飛鳥が観客に深々と頭を下げて。 そうしてこちらに滑って来る飛鳥を見て、僕はようやく我に返る。 そうだ、最後に観客に挨拶をしてこの時間を終わらせなきゃ。 「お疲れ様。」 疲弊して荒い呼吸に肩を揺らしながら帰ってきた飛鳥に声をかけて、僕は再びマイク片手にリンクへ行こうとしたんだけど。 ぽん、と突然肩に乗せられた先生の手が僕の身体を押さえ静止をかける。 「え、なに…」 わけがわからず説明を求めてその顔を見上げた瞬間、するりと伸びてきた飛鳥の手が僕からマイクを奪い取った。

ともだちにシェアしよう!