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第33話

「え、なに、なんなの?」 いきなりの事態に右に左にと顔を見つめても、二人は小さな笑みを見せるだけで答えは返ってこない。 飛鳥は僕から奪い取ったマイクを手に、僕に背を向け会場を見回した。 『あの、突然、すみません、』 場内に、息を切らし途切れ途切れの飛鳥の声が響く。 『あの、いつもなら、ここで終わりなんですけど……今日は、もう一曲やりたくて。』 「え?」 会場からざわめきが起きる。 聞いてない。 え、もう一曲?何をやるっていうの? 『いただいた時間をオーバーしてしまうんですけど、でも、どうしても今日、やりたいんです!僕達に、もう少し時間を頂けないでしょうか。』 飛鳥が深々と頭を下げれば会場からはわっ、と拍手が起きる。 視界の隅で、黒猫の着ぐるみが笑った気がした。 観客からの拍手という承認を受けて、飛鳥は手にしていたマイクを木崎先生に手渡し、その場で着ていた帯を解き衣装を脱ぎ始める。 「美鳥、大丈夫か?」 「はいっ、いけます。」 嘘だ。演技を終えたばかりで疲弊しているのが目に見えてわかる。それなのに、この状態でもう一曲なんて。 そこまでして、皆は何をしようとしてるの? 脱いだ着物も先生に預け、空色のハイネックのインナーに濃紺のボトム姿になった飛鳥は、荒い呼吸を整えるため大きく深呼吸。 その亜麻色の瞳が、満面の笑みと共に真っ直ぐに僕を見つめた。 「(あきら)、お誕生日おめでとう!」 「え、」 予想外の言葉に僕が驚き固まっている間に、飛鳥はリンク中央へと滑り出してしまった。 代わりに先生へと視線を向ければ、ニヤリと笑みを返される。 「あいつらからの誕生日プレゼントだと。」 先生は飛鳥から受けとった衣装を壁際の隅に置き、代わりにいつの間にかそこに立てかけられていた巻かれた白い布を手にまたリンク側まで戻ってくる。たぶん今からの演技で使うものなんだろう。こんな打ち合わせ、いつの間に。 本当に思考が追いついてこない。僕以外皆知ってたって事? たんじょうび、って、僕の? しゃあ今から起こることは、もしかしなくても。 頭の中が整理できないうちに飛鳥がリンクの中央に立ち、自らの身体を抱きしめるように静止する。 場内は再びしん、と静まり返った。 緩やかに響く低音に合わせて飛鳥がゆっくりと滑りだす。 深海……ううん、真夜中の空、だろうか。深い深い静寂と孤独。闇に紛れて今にも消えてしまいそうな不安定な音の中、飛鳥が氷上を駆け抜ける。 静かな、ほの暗さすら感じる曲なのに、飛鳥の身体はまるで子供が駆け回るように無邪気に跳ね回っていた。 そのアンバランスさが逆に見るものを惹きつける。 なんで、笑ってるの。 演技を終えたばかり、本当はもう滑る気力なんてないはずなのに。 色だって、着ぐるみなんて重いものを着て、ずっと弾きっぱなしで辛いはずなのに。 どうしてこの曲で、どうして苦しいはずなのに。なんで、なんで笑ってるの。 「……あいつらなりの、藍原晃(あいはらあきら)なんだとさ。」 独り言のようにぽつりと落とされた言葉に、僕は思わず隣を見上げた。 優しい笑みがそこにはあって、恥ずかしさでいたたまれなくて僕は直ぐに視線をリンクへ戻した。 「お前はどうにも自分の事をわかってねぇみたいだからな。あいつらなりの表現で思い知らせてやるんだとよ。」 これが、僕…… 静かで、孤独で。それでも、重く苦しく感じないのは飛鳥が笑っているからだ。 疲れなんて感じさせない軽やかなジャンプ。でもずっと見てきたからわかる。本当は足元が少しふらついていて、限界近いはずなのに。 夜の空が響く下で笑い舞うその姿は、息を飲むほど美しく、凛としていた。 曲と演技がバラバラのようで、時折見せる表情が、動きが、音とシンクロしてゾクリとさせられる。 無邪気な動きが次第に艶を帯びていって、同時に音も変化していく。 深い闇がかかってる夜の空。けれど、少しずつ、少しずつ、星が煌めいて、月が淡く光って。そうしてほんの少しだけ朝の空気が混ざってくる。夜から朝へと変わりゆく空。 まるで、あの日先生と見た空みたいな。 藍色の空が響く氷上で飛鳥は立ち止まり、僕を見つめて笑った。 ざわりと、胸に波が押し寄せて、僕の中にあった色んな感情ごと攫っていく。 真っ白になった僕の心臓に、ぴん、とピアノの音が響いた。 速度を上げる音に合わせて飛鳥がリンクを滑る。前を向いて、ただ真っ直ぐに。 あぁ、夜が明けていく。 空が白んで、太陽が顔を出して。 「……うそ、」 暗闇から光がさすように、明るい音が空の色を変えていく。 知ってる。 僕はこの曲を知ってる。 毎日、ずっと、ずっと聴いてきた音だ。 何回聴いても僕だけのものにはならなかった、近くて遠いあの空だ。 じわりと湧き上がるものが、息もできないくらい心臓をいっぱいに満たして、一筋瞳からこぼれ落ちた。 「ほら、お前から渡してやれ。」 先生から手渡された真っ白な布。 そうか、この布も僕は知ってる。 スケート部の初まり。僕へのお礼も兼ねてって、飛鳥と色が選んだアイスショー最初の演目。 あの時とは曲の印象も、演技も違うけど、これは、これは、 僕はこぼれ落ちた涙を拭って、巻かれた布を握りしめた。 「飛鳥!」 リンクのフェンスに沿ってこちらに真っ直ぐ滑ってくる飛鳥に、僕は白い布……正確には短い柄のついた大きな旗を渡すためフェンスに身を乗り出した。 近づいてくる飛鳥の顔に満面の笑みが浮かぶ。 空色の衣装に包まれた白く細い腕が伸ばされ、しっかりと僕の手から旗を受け取った。 「ありがとう!」 向けられる笑顔に、僕は逆に目頭が熱くなる。 弾む音、夏の青空みたいな爽快な音。 Sky blueに染まるリンクに白い雲がばさりと勢いよく広がり、はためいた。

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