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第34話

長く長くはためく雲。氷に触れることなく旗をなびかせるため氷上を全力で駆け抜ける飛鳥に、会場からわ、と歓声が上がる。 視界の隅でピアノに向かう(しき)の腰がほんの少しだけ浮いて、ぴん、と短く力強い音が響いた。 鍵盤の端から端まで駆け上がる音に合わせて飛鳥の身体がくるりと回れば、白い布がばさりと大きく円を描き渦を巻く。 その演技は一人、また一人、と観客を巻き込み、ぽつりぽつりと聞こえてきた手拍子はいつしか会場全体を震わせ、飛鳥へと注がれる。 僕はその光景をただ眺めることしか出来なかった。息もできない衝撃に、指一本すらまともに動かせない。 音と、演技と。二人の想いが胸に突き刺さる。 これが、僕の為だっていうの? この綺麗な光景が、あの二人の音と演技が、今僕だけに向けられているなんて。 そんな、なんで、 「奇跡、なんてお前は言ったけどな。これが奇跡なわけねぇだろ。」 いまだに現状が飲み込めなくて呆然としている僕の頭に大きな手が落とされ雑に髪を掻き乱した。 「あいつらがここで演技出来るように環境を整えたのは誰だ。あの二人が今の関係に落ち着いて、一つの作品作れてるのは誰のおかげだ。あいつらは今、誰のために演技してると思ってんだ。」 その言葉はじん、と身体を揺さぶって、リンクを見つめる視界がみるみる滲んでいく。 「お前があいつらを思って、あいつらのために動いた結果だろうが。」 「っ、…」 僕は瞳から溢れ出てくるものを止められなかった。 目の前の光景を目に焼き付けたいのに、何度涙を拭っても視界が滲んでいく。 櫻井色(さくらいしき)は、僕にとって太陽みたいに近くて遠い人だったんだ。 そんな太陽に寄り添って同じように輝ける美鳥飛鳥(みどりあすか)は例えるなら月みたいな人で。 遠くて、眩しくて、手を伸ばしちゃ駄目なんだってそう思っていたのに。 そんな二人の答えがSky blue()だっていうの? 「この光景はあいつら二人じゃなくて、お前達三人で作ったもんだろ。お前は胸張って見てりゃいいんだよ。」 僕の頭を撫ぜていた手が背中に下ろされ、ぽん、と優しく背を叩いた。 その優しさが最後のひと押しになって、堪えていたものを決壊させる。 もう涙を拭うことすら出来なかった。 ひくひくと情けなく漏れる嗚咽も止められなくて、咄嗟に先生のTシャツの裾を思いっきり掴んだ。 その胸に顔を埋めて思いっきり泣きたかったけど、視線はリンクに向けたまま。 最後まで、見届けなきゃ。 嗚咽に身体を震わせぐちゃぐちゃに泣き崩れる僕の頭に、また大きな手がのせられ優しく頭を撫で続けてくれた。 鳴り響く青空。 いつも風景画を見るみたいに頭の中に浮かんでいた景色が、今僕の目の前に広がっている。 遠くで見ていたはずの青空が、深みをまして僕の身体を駆け抜けていく。 滲んでぐにゃぐにゃの視界に、ひこうき雲みたいに真っ直ぐな雲が伸びていった。 手を伸ばし、脚を広げ、ギリギリのバランスで身体全てを使って飛鳥は雲をはためかせる。 その身体が途中でよろめいてぐらりと軸足が揺れたけど、飛鳥はその口元に笑みを浮かべたまま滑り続けた。 もう、笑わなくていいよ。 無理しなくていいよ。 叫び出したいくらい、見ていて辛くなる演技。だけどそれは何よりも美しく強く輝いて、人の心を揺さぶる。 心臓をぎゅっと強く苦しく締め付けてくるのに、同時に抱きしめてくれるような優しい笑みがそこにはあって、僕は強く握っていた先生のTシャツに涙を擦り付けた。 もう、わけわかんない。 今まで感じたことのある全ての感情がごちゃ混ぜになって一気に心臓の奥底から溢れてくる。 優しく頭を撫ぜる手の温もりを感じながら、僕はただただ泣くことしか出来なかった。 会場が揺れるほどのたくさんの手拍子の中で、飛鳥の身体がくるくると回る。 布を絡ませないよう右に、左にと大きく回転する動きに合わせて渦をまく雲。荒く激しくピアノの音が速度を上げて、渦は飛鳥を飲み込んでいって。そうしてぴん、と一際大きな音が鳴り響いた瞬間、会場は音を失った。 飛鳥が布を高く放り投げ、雲は空へと舞い上がる。 終息に向けて走る音に飛鳥の身体が高速で回り、ごくりと皆が息を飲むその瞬間に最後の一音が優しく落とされ空気をふるわせた。 ピタリと止まる飛鳥の身体。 じん、と心揺さぶる余韻の中で、両手を広げた飛鳥にふわりと舞い降りてきた白い布。 それはどこか現実離れした幻想的な光景で、観客は皆しばらくその世界から戻ってこれなかった。 時を止めて呆然とリンクを見つめて。 ひくひくと僕の嗚咽だけがこの広い空間に響いていた気がする。 やがて我に返った観客の一人が小さく拍手を送れば、それは周りに広がっていつしか大きな波となって飛鳥に注がれる。 飛鳥は肩で大きく息をしながら、氷上で観客席を見回してから深々と頭を下げた。 僕が目にできたのはここまでだった。 「最後の挨拶いけそうか?」 隣から聞こえた声に、僕は首を横に振る。それが精一杯だった。 ぐちゃぐちゃな感情の静め方がわからずに、縋るように先生の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。 僕の背中に回された手が、優しく僕を抱き寄せてくれた。 ふ、と優しい吐息が落とされる。 先生は片手で僕の背中をぽんぽんとあやす様に叩きながら、ズボンのポケットにしまいこんでいたらしいマイクを手にして電源を入れる。 『あー、以上を持ちまして本日は終了になります。えー、二週間後の同じ時間に同じ内容ですがまたやらせてもらうので、よろしければその、また足を運んでやってください。』 いつもは僕が言っている最後の挨拶が先生の棒読みで告げられて、ありがとうございましたと締めくくられて。 再び鳴り響いた拍手の音がおさまるまでの長い時間、僕は先生も、僕以上に泣きながら駆け寄ってきた飛鳥も、頭をふらつかせながら着ぐるみのまま歩み寄ってきた色も、インカム越しにもらい泣きしていた(すい)さんも、みんなみんな巻き込んで、しばらくその場から動けなかった。

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