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第49話

「先生はさ、やっぱり先生続けなきゃダメだよ。」 長い時間互いに抱きしめあって、この人の体温を感じて。 切なく苦しく胸を締め付ける痛みと同時に僕の胸に温かく灯った熱は、この人がここにいてくれるっていう安心感。 ああ、やっぱりこの人は先生なんだ。 好きだと思う、その気持ちも本当。でも同じくらい教師としてこの人を信頼している気持ちもある。この人が先生でいてくれてよかった。そばにいてくれてよかったって。 この人はきっとこれから先も僕や柊木(ひいらぎ)さんみたいな生徒を見つけて、手を差し伸べて、支えになってくれる。そうであってほしい。 だけど、先生は僕の願いとは裏腹に、場違いなくらいスッキリした笑みを浮かべた。 「もう、辞めることになんの後悔も未練もねぇよ。」 少し赤くなった目を細めて、嬉しそうに聞こえるくらい弾んだ声でそう言われてしまっては、それ以上僕は何も言えなくなってしまった。 「ねぇ……今日さ、一緒に寝ない?」 あれから互いにいつも通りを装って、普段通りに夕食をとり、シャワーを浴び。そうしてそのまま寝てしまおうという先生の思惑はわかっていたけど、僕は声をかけてしまっていた。 僕が使わせてもらってる寝室のクローゼットからブランケットを取り出してリビングに戻ろうとしていた先生は、足を止めてベッドに座る僕を振り返る。その眉間にはルール違反だろうと言わんばかりに深いシワが刻まれていた。 「お前なぁ、」 「寝るだけ。ほら、先生もソファ狭くてあんま寝れてなかったっしょ?」 ため息深くこめかみを押える先生に、僕はお願い、と両の手を合わせた。 「ベッド、セミダブルなんだから二人でこっちで寝た方がよくない?」 「いや、だからって…」 「今日で、……最後かもしれないんだし。」 困ったように自らの髪をかき乱していたその手がピタリと止まった。 その瞳が一瞬探るように僕を見つめて、それから気まずそうにそらされる。 「……まぁ、今日くらいは。」 深いため息とともに、先生は手にしていたブランケットをクローゼットに戻した。 こんな言い方したら、先生は絶対断れない。狡いやり方だってわかっていたけど、それでも、これくらいの我儘は許して欲しかった。 だって本当に、明日この人は僕の前からいなくなるかもしれないんだから。 「ほら、もっと端に寄れ。電気消すぞ。」 「はーい。」 先生に言われた通り大人しく布団を被ってベッドの端っこに寄れば、パチリと部屋の電気が消された。 突然の暗闇に目が慣れる前にごそごそと衣擦れの音がしたと思えば、すぐ隣に感じる気配。 「おやすみ。」 「……うん。おやすみ。」 目が慣れて、視界に映った大きな背中。何も言うな、触れてくれるなと言わんばかりにそっぽを向いたその身体に僕は思わず笑ってしまった。 おそらく、僕の気持ちがもう色にない事をこの人はわかってる。わかっていて、無言を貫いている。 受け入れることも、拒絶する事もしない。明日職を失うかもしれないのに、先生は最後まで教師としての態度を貫こうとしてるんだ。 ……それが、もしかするとこの人の答えなのかもしれない。僕達はどこまでいっても教師と生徒なんだって。 もしかしたら、先生も僕と同じ気持ちを持ってくれているのかも……なんて、昨日までは淡い期待もあったけど、今日僕は知ってしまったから。先生は、僕に柊木さんを重ねてただけだって。 抱きしめてくれた事も、キスも、僕を柊木さんと同じ所に行かせないために、引き止めるためにしてくれた事。きっと、それ以上の意味は無い。 ズキズキと痛む胸をパジャマの上からぎゅっと握りしめる。 寝返りをうつふりをして身体を寄せて、こつんとその背中に額をつければ、ぴくりとその背は小さく身じろいだ。 「っ、あいは…」 「わかってる。……わかってるよ。」 何も言わない。何も聞かない。だから、これくらい許してほしい。 この人の匂い、体温、心音、声。近くで感じて、覚えておきたいんだ。 だって明日はないかもしれないんだから。 「……明日、ね、あの人に言わなきゃいけない事があるんだ。」 小さく息を吸い込めば、石鹸とほんのわずかにタバコの香りがした。 きゅっと胸が苦しくなるのに、どこか安心出来る匂い。 「ねぇ、先生。明日、そばにいてね。」 「……ああ。言ったろ、守ってやる。だからお前は言いたいこと言ってやれ。」 背中に額を埋めたまま、僕は小さく頷いた。 あぁ、やっぱりこの人が好きだ。 木崎総士(きざきそうし)も木崎先生の事も。 だから僕は、その全てを守りたい。僕はまだ、諦めたくない。 その為に僕がやるべき事、やりたい事。 ……うん。僕の答えは、決まった。 手を伸ばして触れたい衝動をぐっと耐えて、僕はひっそりと固めた決意ごと拳を握りしめる。 「……明日、頑張るよ。」 ぽつりと独り言のように呟けば、チラリと振り返った先生がいつものように雑に頭を撫ぜてくれた。 「上手くいかなくてもその時は……そうだな、それこそ養子縁組でもなんでもして連れて逃げてやるよ。」 「ふはっ。……そっか、それなら絶対大丈夫だね。」 互いに顔を見合せて笑って、その視線が物言いたげなものに変わる前に、僕らはまた元通り。そっぽを向いた先生の背に、こつんと額をつけた。 暖かな布団の中、静まり返った寝室にトクトクと心音が聴こえる。それはとても心地よくて、次第に意識は遠のいていった。 「……(あきら)、」 遠くで、優しい声を聞いた気がする。 安堵できる温もりと匂いに包まれて、僕はここに来て初めて朝まで深い眠りにつけた。

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