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閑話 恋とはどんなものかしら

「先生は恋ってした事あります?」 放課後、いつものように数学準備室にやって来て、図書室で借りてきたのであろう本をひらき始めた教え子にコーヒーを入れてやろうと背を向けた瞬間。なげかけられた声は、無視をするにはあまりにもか細く苦しげだった。 思わず振り返ったが、本に視線を落としたその横顔からは感情がうかがい知れない。いつもはすっと伸ばされた背筋がほんの少し項垂れて見えたのは気のせいだろうか。 「どうした、急に。」 視線を手元に戻し、こぽこぽと沸いたお湯をドリッパーに注ぎ入れれば、狭い空間がコーヒーの香りに満たされていく。 パサリとページが開かれる音。無機質な音を聞きながら、ゆっくり、ゆっくりとコーヒーがサーバーに落ちていくのをただ黙って待つ。 「曲、ですよ。……恋とはどんなものかしら。」 「ああ。」 言われて耳をすませば、廊下をぬけたさらに先、渡り廊下で繋がった隣の棟から漏れ聞こえてくる微かな音。 吹奏楽部の演奏だろう。どこかで聞いたことのある朗らかな曲は、そうか、そんな曲名なのか。 「恋ねぇ。」 「先生だっていい大人なんですから、恋人の一人くらいいた事あるでしょう?」 「まぁ、な。」 恋愛と呼べるほど深い付き合いが果たしてどれだけあったのか。 何となく脳裏に浮かんだ過去の関係を指折り数え、折りたたんだ指を折り返しで開きはじめた辺りでふと注がれる冷めた視線に気づいた。あわてて数えることをやめ、誤魔化すようにその手で髪をかき乱す。 「……うわ、最低。」 「うるせぇ。昔の話だ、昔の。」 来る者拒まず去るもの追わず。恋愛観なんて人それぞれだろう……などと教え子の前で開き直るわけにもいかず、この話は終いだとばかりにマグカップに注いだコーヒーを差し出してやれば、冷めた視線は俺からカップへと移された。 「……そういう、簡単なものなんですかね、恋愛って。」 いつもここではほとんど口を開かず物静かに本を読んでいたはずなのに、珍しいこともあるもんだ。 カップを傾け、それでも中身のない雑談をやめようとしない教え子に面食らう。 動揺を誤魔化すように隣に座り、平静を装いカップに口をつければ、まだ十分すぎる熱を持ったコーヒーに思いっきり舌を火傷しむせかえる。 そんな俺の醜態にくすくすと笑うその声も、やはりどこかいつもと違って見えた。 「……じゃあ、どんなもんだって言うんだよ。お前はどんな恋愛してんだ?」 まさかそんな問いが返ってくるとは思わなかったんだろう。少し驚いた様子を見せた後、何かを考えるかのように押し黙り、やがて伏せられていた瞳がこちらに向けられる。 「たとえば、ですけど。……木崎先生の事好きだって言ったらどう思いますか?」 「は?」 「気持ち悪いと、思いますか?」 じ、と俺を見つめるその瞳に僅かに見えたのは恐怖の色。よく見れば、カップを持つその手は小さく震えていた。 多分きっと、これは適当に流していい話ではない。瞬時に理解して、俺は手にしていたマグカップをデスクに置いた。 「別に思わねぇよ。まぁ、生徒とどうこうなるつもりはねぇから断るけど。」 手を伸ばして、艶やかな黒髪を雑に掻き乱してやる。 「それでも、人に好かれて悪い気はしねぇんじゃねぇの?」 じ、とその瞳を見つめて、偽ることなく答えた。 これがこいつにとっての正解なのかはわからない。だけど、不安げに俺を見つめていた視線は、ふ、とやわらいだ気がした。 その視線がまた、手にしていたマグカップに落とされる。 「……名前を呼ぶだけで、息が詰まりそうなんです。」 ゆっくりとカップの中の澄んだ黒を流し込んだ口元は寂しげに歪められ、ほう、と小さく息を吐いた。 再び上げられた視線は、俺ではなく部屋の入口へ。 「そばにいるだけで泣きそうになるんです。……もう、気が狂いそうで。」 扉の向こう、その視線はおそらく渡り廊下を越えて隣の棟から聴こえる音を、それを奏でるたった一人を見ている。 吹奏楽部に確か仲のいい幼なじみがいたはずだと、俺はようやく気がついた。 仲のいい、同性の幼なじみ。 ああ、こいつの抱えてたものはこれか。 ようやく触れたこいつの心の一端は、なんとも辛く切ないもので。 こういう場合の指導マニュアルなんてものもあった気がしたが、型通りの言葉を使うのはどこか違う気がした。 「……気持ち悪いなんて思うわけねぇだろ。俺なんかより、よっぽどいい恋愛してんじゃねぇか。」 否定しないとか、受け入れるとか、味方になるとか、多分そういう言葉が正解なんだろうと思う。けれど、真っ先に俺の頭に浮かんだのは羨望だった。 こんなにも純粋でひたむきな想いを俺は知らない。泣きそうな顔で笑うその横顔は綺麗だとすら思った。 「……そっか。」 ぽつりと落とされた声は、狭い準備室に溶けて消えていく。 それ以上の言葉はなく、ただ黙ってカップを傾ける教え子を横目に、俺も何も言わず少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。 遠くに聴こえる音に、耳を澄ませながら。 背中に感じていたため息のような吐息が次第に穏やかに、規則的に変わっていく。すぅすぅと寝息を立て始めたことを気配で感じてから、俺は寝返りをうった。 黒目がちの大きな瞳はまぶたに隠れ、薄く開いた唇からは小さな寝息。見てはいけないものを見てしまった気がして、思わず身を起こし自らの髪をかき乱した。 チラリ、視線を戻しても隣で眠る存在は身じろぎ一つしない。 ずっと眠りが浅かったみたいだから、今日はこのまま深く眠れるといいんだが。明日の恐怖を、今だけは忘れられるように。そう、願わずにはいられなかった。 明日、全てが決まる。いや、決めなければこいつはまた母親の元に戻り自分を殺して生きていくことになるんだろう。 そんな事は絶対にさせない。 その為なら教師人生でも何でも捨ててやる。それが、教師として俺に出来る最後の事だろうから。 六年前、俺はどうするべきだったのか、あいつの遺書の意味は何だったのか……教師を続けていれば、少しはわかるかもしれない。そんな縋るような気持ちでだらだらとここまできた。答えを探しながら、それでもそんな事わかるわけないと矛盾した気持ちを抱えながら。 それがまさか、答えを言ってもらえる日が来るなんて思ってもみなかった。 だから、もういい。 教師としての時間は、教師の俺を肯定してくれたこいつに全てくれてやる。 手を伸ばし、髪を撫ぜる。艶のある細い黒髪はさらさらと手からこぼれ落ちていった。 「……(あきら)、」 胸に押し寄せた息苦しさを誤魔化すように目を閉じれば、泣きそうに笑っていたあの綺麗な横顔が脳裏をよぎる。 「……いまさらだな。」 今更、本当に今更だ。 失った教え子の気持ちを今更理解したって、もうどうにもならないのに。 こんな感情で、目の前のこいつを救ってやれるわけでもないのに。 夜の静寂の中、守るべき教え子の髪を撫ぜながら、俺は笑うしかなかった。 今の自分がどんな顔してるかなんて、わかりきってる事実から目を逸らしたまま。

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