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第51話

進路指導室、昨日と全く同じ場所に座り、机の上には昨日と同じ資料が広げられる。真ん中には僕が記入したあの進路調査の用紙。 僕達は互いに視線をかわし相手の出方をうかがった。 「……それで、進路は考え直してもらえたかしら?」 彼女が小さく首を傾ければ、クセのない艶やかな黒髪がサラリと揺れる。 穏やかな笑顔の中にほんのわずかに顔を覗かせる狂気。 それでも僕は、迷わず首を横に振った。 「考え直すつもりはないよ。」 第一志望はあくまでもこの彩華(さいか)高校からほど近い地元大学。それはつまり、都内に住むこの人とは共に暮らせないという僕の意思表示でもある。 当然の事ながら、それは彼女にとって納得のいく物じゃないだろう。 「昨日もお話したでしょう?この大学に行っても、将来晃ちゃんが苦労するだけよ。もっといい大学に行かなくちゃ…」 「いい大学に行って、どうするの?それで、僕がやりたい事をやれるっていうの?」 間髪入れない僕の反論に、目の前の人の口元はきゅっと引き結ばれる。 カチリと、いつ彼女の狂気のスイッチが入ってもおかしくない状況だって事はわかっていた。それでも不思議と恐怖はない。 しん、と穏やかに、自分でも驚くくらい心が凪いでいた。 目の前にいるこの人は、こんなに小さかったっけ。身長はいつの間にか僕が追い越して……なんて言えればかっこいいんだろうけど、結局僕の身長はこの人を見下ろせるくらいに伸びる事はなかった。ヒールを履いている分、情けない事に僕の方がほんの少し見上げなければならないくらいだ。それでも今日は、いつもと違ってその存在を小さく感じられた。 大きく、というより、絶対的な存在に見えていたんだ。この人の言う事は全て正しい事で、僕はそれに従って生きていかなきゃいけなくて。 だって僕には、何もなかったから。この人に反論できるだけのものが、なにも。 「あなたはまだ子供なの。どうする事が一番いいのか、幸せなのか、あなたにはわからないのよ。私はね、晃ちゃんに幸せになって欲しいの。」 今まで僕を縛り付けていたはずの言葉が、するりと右から左へと抜けていく。 従う必要なんてどこにもない。素直にそう思えた。 だって僕は決めたんだから。 返答を考えるふりをして、僕は視線をほんの一瞬だけ隣へと移す。 言いたい事、言ってやれ。 言葉にはしなかったけど、優しい瞳が僕を映していた。 うん、大丈夫。ちゃんと言える。 僕は小さく頷いて、目の前の人に向き直った。 「この大学がいいんだ。この大学の出身者が一番多いみたいだし、学費を考えてもわざわざ都心に行って戻ってくるよりここにいた方が都合がいいと思うから。」 「晃ちゃん……?」 この人から逃げるためじゃない。自分のことなんてどうでもいいと適当に決めたわけじゃない。 ちゃんと自分と向き合って決めたこと。 ――自分が何をしたいのか、ちゃんと考えとけ。 僕は、僕の信じた人を、信じた言葉に、ただ答えを出せばいいんだ。 「僕はこの大学に行くよ。この大学の、教育学部に行く。」 「な、」 隣で、先生の肩が驚きに小さく跳ねる。それでも僕は前を見つめたまま、ただ真っ直ぐに答えた。 「僕は、教師になりたいんだ。」 僕の出した答えに、大人達は瞳をまん丸に見開いて固まってしまった。 こんな時なんだけど、僕に注がれる視線と二人して口をはくはくさせるその姿がおかしくて。 気がつけば僕は声に出して笑ってしまっていた。

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