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第52話

気がつけば僕はいつだってその背中を見ていた。助けてもらった。 だから僕も、そんな大人になりたいと思ったんだ。 「僕は教師になる。教師になって、いつかこの学校に帰ってきたいんだ。」 気恥ずかしさから隣にいる先生と微妙に目を合わせられずにいたんだけど、はくはくと声にならずに動いていた口から、ふっ、と小さく息を吐いたのがわかった。 「……それが、お前のやりたい事なんだな?」 先生の問いに、僕は迷うことなく頷いた。 チラリと隣を見上げれば、その口元に小さな笑みが灯る。 ちなみに、ドアの外からわぁ、という感嘆の声と拍手が聞こえてきたのは気のせいじゃないんだろう。色があわてて静止する声までバッチリ聞こえてきたから、二人にも多分全部聞かれてるんだろうな。春休み中、ずっと考えていた僕自身の気持ちを。 「教師になりたい。だから、僕はこの大学に行く。」 適当に選んだわけじゃない。これは、僕の望む未来のための決断だ。だから絶対に譲らない。僕の決意と言葉を偽ることなく真っ直ぐに伝える。 けれど、目の前のその人はいたずらを目の前にしたみたいに、困った顔で笑った。 「駄目よ、教師なんて。」 咎めるように、優しく。だけどそれは全てを否定する言葉だった。 「苦労するのが目に見えているわ。普通のお仕事みたいに労働時間がきちんと決められてるわけではないし、生徒を選ぶことも出来ないし。あなたはそんな苦労をしなくてもいいのよ。」 思わずため息が出た。 わかってはいたけれど、やっぱりこの人は否定してくるんだな。 僕のため。いつもそう言って僕を縛り付けていたこの人の言葉。今ようやく、僕はその言葉の意味がわかった気がする。 母親の顔して微笑むその人に、僕は気がつけば冷めた視線を送っていた。 「……僕の幸せって何?僕からやりたいことを奪って、芽生えた気持ちをへし折って。僕に絶望を味あわせてまで押し付けてる僕の幸せって何?」 「、そ、れは…」 怒りに任せて、ではない。それどころか、煮えたぎってもおかしくないはずの僕の心臓は急速に熱を失っていった。 ああ、やっぱりそうなんだな。 わかっていたはずのことを、ようやく実感できたのかもしれない。 この人は僕を見てるわけじゃない。僕のためだと言うその言葉を心のどこかで否定しきれない自分がいて、今まで従ってきた。 親の言うことは正しい、子供の僕は世界を知らず、いつもどこか間違ってしまっているんだと。 でも、やっぱり違ったんだ。 言葉を探しあぐねて視線をさまよわせ俯くその人に、僕は言葉の槍を突き刺す。 「周りが羨むようないい大学にいって、それから父さんみたいな仕事につけばいい?そうやって理想の息子になって、幸せを感じるのはなの?」 びくりと、目の前の小さな身体が強ばった。 たぶん、本人も気づいてなかったんだろう。僕の言葉に恐る恐るあげられたその顔は、ショックに強ばっていた。 「僕は、あなたの幸せのための道具じゃないんだよ。」 「そ、んなっ、そんな事、」 胸にずっとずっとつっかえていたものがポロリと落ちていく感覚。見えていたはずの視界がどんどん拡がっていく。身体が、嘘みたいに軽い。 そっか。何を思うのも、何を言うのも、自由なんだ。 「あなたが僕にした事は愛情じゃない、虐待なんだよ。僕は、そんな人の言葉は聞けない。そんな人と一緒には暮らせない。」 それが事実。それが答え。僕はこの人を親として見ることが出来ない。もう二度と、昔に戻りたくない。 「そんな……そんな、」 突きつけられた事実に、目の前の人の顔からみるみる血の気が引いていく。 「……そんな、私は、わたしは、……(あきら)ちゃんのためを思って、」 カタカタと震える身体をおさえるように自らをぎゅっと抱きしめるその人に、僕も先生もかける言葉がなかった。 自分が何をしてきたのか、この人にもちゃんと向き合って認めて欲しい。 それで、全てに決着がつくんだ。 カタカタと彼女の座る椅子がしんとした室内に僅かに音を立てる。 僕達は何も言わず、聞かず、ただ祈るような気持ちで目の前の人の言葉を待っていたんだけど、 「…………認めない、みとめないわ、」 返ってきたのは狂気に染まった瞳だった。 「晃ちゃんのためなの、あきらちゃんはわかっていないのよ、わたしは、わたしはまちがっていない、いるはずないの!!」 「っ、藍原さん、落ち着いて…」 「いやっ、いやぁっ、わたしはまちがってない、まちがえるわけないの、ぜんぶこのこのためなのよ!!」耳をつんざく悲鳴に近い声。 バタンと大きな音を立て、跳ね飛ばされた椅子。 机を思いっきり叩きつけ立ち上がったその人は、傍らに置いていたハンドバッグを掴み、そこから何かを取りだした。 「藍原っ!」 彼女の手に握られた果物ナイフが鈍い光を放った瞬間、僕の身体にどんっと走った衝撃。 全ての状況を把握するより早く、僕の身体は真横に跳ね飛ばされていた。

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