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第54話

右手に感じた衝撃と痛み。 全身の血液が煮えたぎって脳が沸騰しそうな怒りの中で、打つほうも案外痛いんだなってどこか冷静に見ている自分がいた。 「あ、……きら、ちゃん…」 生まれて初めて人を打った。 だってこんな事、許せるわけがない。優しすぎた父さんは何も言ってはくれなかった。だから、これは僕がしなくちゃいけない事なんだ。 まだ現実が受け入れられていない目の前の人は、大きな瞳を見開き鳴き狂っていた口をぽかんと開け固まってしまっている。その背後で(しき)も同じように驚愕に目を見開いていた。 「いい加減にしろ!自分が何やったかわかってんの!?」 怒鳴りつければ僕を見つめていた瞳が揺れる。どこか焦点のあっていなかったその視線がようやく僕の背後へ向けられ、像を結んだらしい。 青白い顔で床に座り込み右手を押える木崎(きざき)先生。その足元に広がる赤にようやく気づいたらしいその人はビクリと身体を強ばらせた。 「ぁ…、わ、たし、……」 色に背後から拘束され身動きが取れない中、カタカタと震えるその人を僕はただ黙って睨みつける。 「わ、わたしは、(あきら)ちゃんを愛してるのっ、本当に、あなたに…」 縋るように伸ばされた手を、僕は掴むことはしなかった。 「人を傷つける事を愛情なんて言わない。そんな事するあなたを、親だなんて思えない。」 「そ、んな…」 力無く落ちていく手を、僕は滲む視界の中で見ていた。 怒りと同時に僕の身体の奥底を揺らす感情。長く長く僕の中に積み上げられていたものがぐらりと揺らいで、崩れて。 溢れ出るものを、僕は抑えることなくぶちまける。 「ねぇ、……父さんは、もういないんだよ?もう、僕達しかいないんだよ!」 堰を切ったように流れ出てくるものは、激しい怒りと―― ずっと、ずっと、辛かったんだ。 愛情だって言いながら、僕に与えられていたのは苦痛と恐怖だった。だから、僕にとってこの人は恐怖そのもので、憎しみの対象で。 ……そう心から思えたらどんなにいいだろうって、ずっとずっと思ってた。 滲む視界を制服の袖で拭う。 泣くわけにはいかない。その前に、言えなかったこと、全部ちゃんと言ってやるんだ。 「あんたは生きてるのに、なんでこんな気持ちにならなきゃいけないの!」 時折入るスイッチに怯えて生きていた。 本が大好きで、沢山の絵本や物語を読み聞かせてくれた。料理上手で、甘いものが好きな僕の為にプリンやケーキをよく作ってくれた。 父さんや僕に愛してると言うその優しい笑みに、偽りがなかったことも知っている。 恐怖を感じて、でも憎みきれず。愛情を感じて、でも受け入れられず。 僕はずっと、ずっと、苦しかった。 「……母さんって、呼べないよ。…呼びたかったよっ、」 苦しかった。怖かった。絶望を感じて逃げ出して……それなのに、心の片隅に何かがずっと引っかかってて。 でも、もういい。 この人は、僕の大事な人達を傷つけた。それは絶対に許していい事じゃないんだ。 「ぁ……、わたし、…わたし……」 母と呼ばれていなかった事に今更気づいたんだろう。絶望に脱力した身体が、背後から拘束していた色ごとその場に崩れ落ちた。 再び滲みそうになる視界を、ぐっと奥歯を噛み締め耐える。 「ご、……めんな、さい、わたし、わたし…」 その大きな瞳からこぼれ落ちる涙を視界の隅にとらえながら、僕は制服のポケットに入れていたスマホを取り出した。 「晃……どうする気だ?」 「警察に連絡する。」 色が何か言いたげにしていたけど、どのみち飛鳥が先生達を連れて戻ってくるはずだ。隠すことは出来ない。そもそも、この人を助けちゃいけないんだ。 画面を開いて、三桁の番号を入力する。たったそれだけの事なのに、僕の指は震えていた。 それでも、僕が終わらせなきゃ。 ぐっと息を飲み通話のアイコンをタップしようとしたのに、 「……藍原、やめとけ。」 背後から聞こえてきた声に、僕の指はピタリと止まった。 反射的に振り返れば、床に座り込み苦痛に顔をゆがめながらも咎めるように真っ直ぐに僕を見つめる先生がいて。いまだに色々ごちゃ混ぜになって溢れ出ていた感情の矛先が一瞬でそちらに向いてしまった。僕は思わず先生に詰め寄る。 「っ、なんで、いいわけないっしょ!?これは立派な傷害で、下手すれば殺人未遂なんだよ!?」 これだけの事をしたんだから、この人は罰を受けなきゃいけないんだ。 それなのに被害者である先生は静かに首を横に振った。 「あー、あれだ。これはあれだよ、飯作ろうとして自分で切ったってことで…」 「馬鹿じゃないの!」 咄嗟にしゃがみ込み、先生の右手首を掴んでいた。ぐ、っと苦悶の声と共にその顔が歪む。 痛いなんてもんじゃ無いはずだ。流れ出ていた血はとりあえず抑えられてはいるけど、応急処置に縛り付けたハンカチもネクタイも真っ赤に染まってしまっている。なによりさっきからずっと肩で荒い息を繰り返しているくせに。 「なんで庇うの!」 許されるはずない。許しちゃいけないのに。それなのに、先生はその口元に笑みを浮かべた。 「……教師になりてぇんだろ?身内に前科者なんて出してみろ、公務員は難しくなるぞ。」 だから、非情になりきらなくてもいいんだと言われた気がした。 その一言に足元からふ、と力が抜けて、僕の身体は先生の目の前に崩れ落ちる。 呆然としている僕の頭に先生の左手が伸びてきて、いつもみたいに雑に髪をかき乱した。 「藍原、よく頑張ったな。」 優しい言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものがふつりと切れる。 「っ、……うあぁぁぁぁぁっ!!」 目の前の人に抱きついて、喉の奥から絞り出されたような叫びが勝手に口から飛び出していた。 耐えていたはずのものがぼろぼろと瞳からこぼれ落ちて先生のシャツを濡らす。 小さな子供みたいに声を上げて泣いて、泣いて。 悲しいのか、安堵なのか、それすらわからずただひたすらに叫び泣く僕の頭を、先生は優しく撫ぜ続けてくれた。 ……血まみれのナイフを手にしたまま校内を走り回った飛鳥が大混乱と先生達を連れて戻ってくるまでの間、ずっと。

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