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第55話

血の落ちる室内に、泣き叫ぶ生徒と保護者。挙句担任は負傷して血の気の引いた顔をしていたし、生徒は保護者を羽交い締めにしてるわ、職員室まで呼びに来た生徒は血まみれのナイフを絶対に離さないと握りしめているわ。 混乱を極めた現場に駆けつけた教師陣は一様に面食らってしばし呆然としていたけれど、それでも我に返った先生達が状況を整理してくれたおかげで、事態はとりあえず終息した。 駆けつけた養護の先生が木崎(きざき)先生をすぐさま病院へと連れて行ってくれて、残された僕達は事情を聞くためにと二階の進路指導室から一階の応接室へと場所を移して、校長達を前に僕は全てを説明した。 幼い時から虐待を受けていた事。痣も見せて、エスカレートしていった暴力の事を事細かに話した。 飛鳥がずっと肩を抱いてそばに居てくれて、(しき)は拘束をといてからも何も起きないようにとずっと部屋の隅のソファであの人のそばについていてくれて。 だから、全部全部話した。 木崎先生と色と飛鳥には全て知られてしまって、皆は僕を守ろうとしてくれて。結果、こんな事になってしまったと。 知られてしまう恐怖に時々言葉を詰まらせて、そのたびに飛鳥に大丈夫だよってぎゅっと抱き締めてもらった。 「……だから、木崎先生は僕を守ろうとして負傷したんです。」 全てを話し終えてから、僕はその場に立ち上がり先生達に頭を下げた。 校長に教頭、それから多分今日の面談を木崎先生の代わりにするために呼ばれていたんだろう副担任だった体育の橋元先生。駆けつけた他の先生達は応接室まで入ってはこなかったけど、もしかすると扉の外で話を聞いているのかもしれない。 「……本当に、申し訳ありませんでした。」 深々と頭を下げてから顔を上げる。 先生達は僕になんと声をかけていいのかわからなかったんだろう、皆言葉をつまらせ、その視線を僕から部屋の隅へと移した。 色の隣でガタガタと震えていたその人は、先生たちの視線に身体を強ばらせる。 「っ、……あの、…私は……も、もうしわけありません…」 掠れた声で謝罪を口にする彼女に、先生達は対応を決めかねているようだった。 「その、生徒に何か被害があったわけではないですし、これは家庭の問題…」 「しかし校長、実際木崎先生は怪我を負ったわけですし、これはやはり傷害事件として、」 「ちょっと待ってください!木崎先生から絶対警察沙汰にしないでくれと自分達は念押しされたんですよ。先生の意思を…」 「……罰は、受けるべきだと思います。」 おどおどと立ち上がった彼女は、そう言って静かに頭を下げた。 「皆様にご迷惑をかけた責任は取るべきだと思います。」 木崎先生は僕を守るために警察沙汰にしないと言ってくれたけど、それでもこれは何事も無かった事に出来るようなものではないと思う。 「ですがどうか、この子に負担のない形で、……お願いできないでしょうか。」 申し訳ございませんでしたと再度頭を下げる彼女に、先生達は顔を見合せ困惑するばかりで結論は返ってこない。 しん、と静まり返った室内。 決断を下さなければならないはずの校長は、どこまでが顔で頭なのか境界線が微妙な額の汗をハンカチで拭うだけだった。誰もが言葉を探し、見つからないまま時間だけが過ぎていく。 事態を動かしたのは、扉の向こうから聞こえてきた足音と、外にいた先生達のざわめきだった。 「失礼します。」 ノックとほぼ同時に扉を開け姿を現したその人に皆は思わず席を立ち、僕は考えるよりも先に駆け寄っていた。 「っ、先生!」 いくぶんか血の気の戻った顔色。血のこびりついていた右手には真新しい包帯が巻かれている。血のついたスーツのジャケットは脱いで左腕にかけられていたけどワイシャツは血まみれのまま。それが痛々しく見えたけど、でも、先生は駆け寄った僕に何ともないと言わんばかりに包帯で巻かれた右手をひらひらと振って見せた。 「……だい、じょうぶ?」 「しっかり縫ってもらったから大丈夫だ。指もちゃんと動く。」 その言葉に、僕だけでなくその場にいた全員が胸をなでおろした。 開いたままだった扉の向こうで養護の先生が苦笑いしてたけど、とりあえず後遺症等の心配はないってことなんだろう。 木崎先生は校長達に向けぺこりと頭を下げた。 「でご心配とご迷惑をおかけしました。」 あくまでも自分のせいだと、責任は自分にあると暗に告げた先生に気圧され、校長達はたじろぐ。 謝罪の形をとってはいるものの、一礼し顔を上げた木崎先生のその表情には、有無を言わせない圧があった。 「ま、まぁ、木崎先生がそう仰るなら、そういう事で。」 「で、ですな。こ、この件はこれで終いという事に。」 被害者である先生にここまで強く出られれば、校長達にはそれを拒否する理由がない。学校としてはこれ以上騒ぎを大きくしたくないという思惑もあるんだろう。 もちろん、僕や……彼女にとっては納得のいくものではなかったけど。 「本当にいいの?」 念押しで聞いてはみたけど、先生はやっぱりそれでいいんだと笑うだけだった。 「実の息子に打たれて説教されたんだ、もうそれで十分だろ。」 先生の視線が、僕から入口の脇へと移される。目が合った彼女は、ビクリと肩を揺らした。 「あの、き、木崎先生……」 ゆっくりと前に進み出た彼女は恐る恐る先生の顔を見上げ、それから勢いよく頭を下げる。 「あ、あのっ、……申し訳ありませんでしたっ。わたしは、私は、どうやって償えばいいのか…」 肩を震わせ、震える声を何とか絞り出したその人に、先生はゆっくりと首を横に振った。 「俺にはその言葉だけで十分ですよ。」 「っ、ですが、」 「それでも足りないって言うのなら、学校や俺ではなくて、一生をかけて(あきら)に償ってやってください。」 す、と彼女の目の前に差し出された一枚の茶封筒。腕にかけていたジャケットに隠れて気づかなかったけど、先生はずっと手にしていたであろうA4サイズのその封筒を無言で彼女に手渡した。 「職業がら、そういう所とも繋がりがありまして。」 震える手が封筒の中身を半分ほど取りだし確認すれば、それはどうやら病院のパンフレットみたいだった。 「都内から少し離れた場所にはなるんですが、DVや虐待の加害者の更生とケアを積極的に行っている所です。……晃の為を思うなら、どうかカウンセリングを受けて一度ご自身としっかり向き合ってください。」 彼女の瞳が大きく見開かれる。 いつの間にこんなものを用意していたんだろう。 先生は僕だけじゃなく、最初から加害者であるこの人にも手を差し伸べるつもりだったんだ。 下手すれば死んでいたかもしれないのに。 この人は本当に……馬鹿だよ。面倒くさがりのくせに、不器用で、愚直で、お人好し。 木崎先生の思いは、しっかりと目の前の人に届いたらしい。 封筒を抱きしめるように胸に抱えた彼女は、その瞳から涙をこぼしながら深々と頭を下げた。 「お約束します。必ず、必ずカウンセリングを受けます。……晃に、母と呼んでもらえるように。」 今までだって暴力を振るわれたあと、我に返った彼女の口から何度となく謝罪の言葉を聞いた。もうしないからと、ごめんなさいと、泣きながら告げられるその言葉を、僕はいつだって信じられなかった。 だけど、 「晃ちゃ……晃、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。」 許すよ、とは言えなかったけど、それでもこの人の言葉と涙を今度こそ信じてもいいかもしれない。 肩を震わせ頭を下げるその人を見つめながら、僕はそう思い始めていた。

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