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第56話 藍色(スカイブルー)に染まるまで
茜色の空の下、黒く長く影の伸びる時刻。
そのまま別れてもよかったんだろうけどなんとなくそう出来なくて、僕は彼女を校門まで見送ることにした。
色 と飛鳥と木崎先生が遠くで見守ってくれている中、なんと声をかけていいのかわからなかったから、終始無言のまま。手配していたタクシーに乗り込むその人を、ただ黙って見ていた。
パタンとドアが閉められる。
何か、言うべきだっただろうか。
互いに連絡先も知らないまま別れてしまっていいんだろうか。そう思うのに言葉は出てこなかった。
閉じられたドア越しに目が合えば、同じように言葉を探していたのだろうその人は縋るような瞳を僕に向け、タクシーの窓を開けた。
「あの、…晃 、その……手紙を、書いてもいいかしら。」
それは、彼女から伸ばされた細い細い糸。完全に切れてしまわないように、ほんの僅かでもと求めた希望なんだろう。
夕焼けで赤く染まる頬に少しだけ涙を浮かべながら告げられた願いに、僕は小さく頷いた。
「……返事、書くよ。」
大きな瞳が見開かれ、頬に一筋の涙が伝った。
ええ、ええ、と、それ以上は言葉にならなかった彼女に代わって、僕は運転手さんに畔倉 駅までお願いしますと告げれば、車はゆっくりと走り始める。
開いたままの窓から顔をのぞかせ、涙ながらに僕を見つめ続けるその姿が小さくなって見えなくなるまで。
手を振るわけでも、さよならを言うわけでもなく、ずっと彼女を見つめていた。
終わったんだ。全部、ちゃんとケリをつけられたんだ。
車が姿を消し、それでもしばらく真っ直ぐ伸びる道の先を眺めながら、僕はようやくその事実を実感し、噛み締め始めていた。
「あーっ、髪全然拭けてないじゃん!ちょっとここ座って。」
「あ?いいだろ別に…」
「よくない!」
夜の黒が濃さを増し、一つ二つと寮の灯りが消え始める時刻。
就寝のためのブランケットを取りに寝室に入ってきた先生を、僕は呼び止めていた。
ポンポンとベッドを叩けば、先生は眉間に皺を寄せ嫌そうな顔をしながらも大人しく僕の隣に腰を下ろす。
そのうち乾くだろ、と肩にかけていたタオルで水気を含みまくっている髪をガシガシと掻き乱してはいるものの、片手で上手くできるわけもなく、僕はベッドの脇に置いていた自らのリュックの中からドライヤーを取り出し、コンセントを差し込みスイッチを入れた。
先生の手からタオルを奪い取り、くるくる巻いたくせっ毛に風を当てていく。
「だからお風呂も一緒に入るって言ったのに。」
「んなことできるか。お前はいちいち心配しすぎなんだよ。」
「だって……」
先生がどれだけ平気だと言っても、右手に巻かれた包帯はどうしたって痛々しく映る。
色々とお節介を焼きすぎてしまっている自覚はあるんだけど、僕を守ろうとしたせいで傷を負ったんだから、黙って見ておくなんて出来るはずもないわけで。
いや、まぁ、あーんは流石にやりすぎたかなとは思うけども。
「名誉の負傷だ。気にすんな。」
そう言って笑う先生に、僕は何も言い返せなかった。
風を当てながら、指でくせっ毛を梳く。十分に乾いたのを確認してからタオルを先生の首にかけ直しドライヤーのスイッチを切れば、先生はこちらに向き直り、ありがとな、と僕の髪を雑にかき乱した。
そのまま立ち上がって先生が部屋から出て行ってしまう前に、僕はその場で居住まいをただし、深々と一礼する。
「……ありがとう、ございました。」
真面目に言えば、先生は居心地悪そうに視線をさまよわせた。
「……べつに、俺は何もしてねぇよ。お前が頑張った結果だろ。」
「ううん、先生がいなかったらさ、こんな結末にはなってなかったから。」
全寮制の高校に入っても、たぶん卒業して成人して一人で生きていけるようになったとしても、僕の心の片隅にはあの人との事がずっと引っかかっていた。
もし、なにかの偶然が重なって再会したら。あの人が僕を探し出したりしたら。それは僕の周りの人達に迷惑をかけることになる。
色も飛鳥もこれから世界に名前を知られていく人達なのに、問題を抱えた僕が近くにいるわけにはいかないと……そう、思っていたのに。
逃げる事しか考えていなかった僕の背中を隣に寄り添って押して押して押しまくってくれた誰かさんのおかげで、問題事は全て解決してしまった。
完璧にケリをつけたとは言えないかもしれないけど、それでも暗く閉ざされていたはずの僕の目の前の道は、明るく開けてしまった。
好きな事を、思った通りに。何だって自分で決められる。こんな嬉しさと怖さを抱ける日が来るなんて、思ってもみなかった。
「ありがと、木崎せんせ。」
「……ここまでしてやったんだ、やりたい事ちゃんと実現させろよ?藍原 せんせ。」
ニヤッと笑った先生の表情はどこか楽しげだった。
僕もつられて笑顔を浮かべれば、先生はふっと優しい眼差しを向けてくれる。
あーあ、やっぱりこの人はどこまでいっても先生なんだよなぁ。
嬉しくて苦しいその眼差しに、僕は気づかれないように小さく息を吐いた。
「……ねぇ、見たいでしょ?教え子が教師になって帰ってくるところ。」
「まぁそりゃ、な。」
「それに僕、ひょっとしたら教え子脅して言う事きかせるような酷い先生になっちゃうかもよ?」
「おいおい、」
「……今教師辞めたら、絶対後悔するよ?」
目の前の瞳が大きく見開かれた。
「お前…」
はくはくと声にならない声を上げる先生に、僕はニヤリと口の端を釣り上げる。
「未練も後悔もないって言うなら、僕が未練になってあげる。後悔させてあげるから、先生は教師辞めないでよ。」
木崎総士 は教師であり続けるべきだ。
真っ直ぐ見つめてそう告げれば、先生は自らの左手で顔を覆い、盛大にため息を吐いた。
「……明日校長に土下座じゃねぇか。」
「うん。頑張って。」
僕の事が解決しても、木崎先生は退職願を撤回しようとはしなかった。
学校の評判に関わる事件が発生したのは変えられない事実だ。木崎先生はその責任をとるつもりでいるんだろうけど、そんな事僕が絶対にさせない。
それは、生徒として木崎先生を信頼している僕のやりたい事だから。
ふふん、と得意げに笑ってみせれば、先生は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて舌打ちをした。
「ったく、本当にお前ってやつは…」
言葉とは裏腹にどこか嬉しそうな先生。しょうがないやつだなとため息混じりに再び髪の毛をかき乱されれば、僕の胸はツキリと痛む。僕に触れる大きな手。その温もりが嬉しくて苦しい。
わかってる。この人は教師で、僕は生徒。それは僕自身が望んだもの。これが、僕達の正しい距離。
………………でもさ、それはそれ。これはこれ。
べつに、この人に気を使う必要なくない?
だって、僕はもう誰を気にすることなく好きな事を思った通りに、何だって自分で決められるんだから。
「……ねぇ先生、」
ずいっと身を寄せて、先生の首にかけられていたタオルを引き抜き床に落とした。
「あいは…っ!?」
先生の言葉が終わるのを待たずに、僕は先生の肩を押しベッドに押し倒す。
突然の出来事に呆然としたままの先生を見下ろしながら、僕は先生の唇を自らのそれで塞いだ。
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