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30.厳しい叱咤
「っ…」
腕に走った痛みに僕は顔を顰めた。
痛みの原因に視線を向けると、それを持つフローレンス先生が眉間に皺を寄せて険しい顔で椅子に座る僕を立ったまま見下ろしてきた。
「手が震えていますよ。どうして日が経つ事に字が乱れるのですか。本当に出来の悪いこと」
ここ何週間かずっと文字を書き続けていたせいで腕が痛くて、日が経つ事に利き手の震えが増していた。そのせいで字が乱れて、それに怒ったフローレンス先生が手に持っていた短鞭で僕の腕を叩いてきたんだ。
叩かれたことに驚いたと同時に、どうして…って悲しくて辛くて、涙が溢れてきた。
悲しくて泣くのなんてもう嫌だと思っていた。
それなのに、辛くて、涙は止まってくれない。
「泣いて同情を誘おうとは思わないことですね。陛下にはそれでも通用するのかもしれませんが私には無理ですよ。そもそも、最初から貴方はやる気が感じられなかったのです。覚えも悪いですし、やはり今は公爵子息とはいえ、それ以前の身分が卑しい者は駄目ですね」
「…っ…」
この人は僕のこと嫌いなんだ…。
彼女の言葉を聞いて、今やっとそれを理解した。
確かに僕は戸籍登録がされてなくて、身分も何も無かったけれど、だからってそんな風に言われる筋合いはあるのだろうか…。
怒りと悔しさが溢れてくるのに、この人に口で勝てる気もしなくて言葉の代わりに涙だけが出てくる。
こんな気持ち、ロペス公爵家に居た時以来だった。
認めて欲しいのに、認めて貰えない歯痒さと、自分を出来損ないだと罵ってくることへの怒りと悲しみ。腕にまだ残るじくじくとした痛みがお前は駄目なやつだと格印を押されている様な気にさせてくる。
「…僕……もう、貴方には教わることなんてありません…」
「何を言うかと思えば、これだから出来の悪い人間は、すぐ逃げようとするのですから。いいですか、こんなことにも耐えられないようでは何をやっても上手くは行きませんよ」
僕の言葉を彼女は真剣には受け止めず、そう言ってまた短鞭で僕の腕を叩いてきた。
こんなこと許されるわけない…。
今の僕にはそれが分かるのに、誰かに迷惑をかけるのが嫌で周りに助けを求めることを躊躇してしまう。
「リュカ様、紅茶をお持ちしました」
「…っ!まって、ラナ、今は入ってこないで」
慌てて涙を拭うけれど、入室してきたラナには僕が泣いていることが見て取れたんだと思う。
彼女は僕の顔を見て怪訝な顔をすると、フローレンス先生に厳しい視線を向けた。
「…なぜ泣いておられるのですか?」
「少し厳しく叱ってしまったので泣いてしまわれたのよ。心配はいらないわ」
ラナは僕に尋ねてくれたのに、フローレンス先生が僕が答える前にそう言って素っ気なく返事をしてしまった。
それに俯いて唇を噛むと、カチャッと紅茶の乗ったトレーがサイドテーブルに置かれる音がした。
「陛下に報告致します」
「大丈夫だと言っているでしょう。一介の使用人風情が生意気な口を叩かないで頂戴」
「確かに私は一介の使用人ですが、出自はしっかりしていますし、リュカ様のことは陛下にお伝えする義務がありますので」
「陛下の従妹だからって図に乗っているのではなくて?」
「そちらこそ陛下を教育したのが貴方のお父君だからといささか調子に乗られているのではありませんか。とにかく、リュカ様こちらへいらしてください。陛下に伝えておきますから今日はもうお休みに致しましょう」
ラナがそっと僕の背中を撫でてくれて、席から立つように促してくれた。
それをフローレンス先生が睨みつけることで制してくる。
「…ぼ、く…」
どうしたらいいかも分からなくて、けれど助けて欲しいと心の中では思っているからラナに促される形で席から立ち上がった。その瞬間くらりと目眩がして、僕は思わず床に膝をついて頭を抑える。
「リュカ様っ!?」
ラナが慌てて支えてくれるけれど、酷い頭痛と目眩は収まらなくて、ぐるぐると視界が回る感覚に、そういえば最近あんまりご飯もまともに食べていなかったと思い至った。
ロペス公爵家にいた頃は、こういったことは頻繁に起こっていて、やはり食事と休息は大事なのだと身をもって思い知らされた。
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