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⑬
使った皿を片付けていると戻ってきた東園は抱えた凛子を和室の布団へ横たえた。
水音がうるさいと寝付けないかもしれないので食器を流すのは後回しにしてリビングの電気をそっと消し、テレビも消した。二人が入ってしばらくのち、東園だけがそっと和室から出てきた。寝かしつけは成功したらしい。リビングの電気は和室に入るためつけられないのでダイニングとキッチンで明かりを採る。
「お疲れ様」
「薬ありがとう。さすがだな。職場でも飲ませる事がある?」
陽向の対面に腰を掛けた東園は息をついて髪をかき上げた。
「いや、うちの幼稚園にはパートの看護師さんがいるから、僕たちはしないよ。姉の真似をしただけ。これ、半分の確率で失敗するって言ってた」
「成功して良かったよ」
苦笑した東園も寝た子が起きたら困ると思っているのだろう、ずっと小声だ。東園も疲れたようで、ふっと大きく息をついた。ポケットからスマホを取り出し時間を確認するともう十時前だ。
「東園、お風呂入って休んだらどう、僕が凛子ちゃんに付いてるから」
「……今日は泊まってくれるよな」
テーブルに肘をついた東園がじっと見つめてくる。風呂にまで入れておいて何を言い出すのかと思う。
「風呂に入ったのに帰れって?」
「まさか。良かった、絶対帰るって言われたらどうしようかと考えてた。じゃあ風呂行ってくるからキッチン、冷蔵庫の中、好きに使って」
「分かった」
東園が風呂ヘ行ったあと陽向は和室のふすまの隙間から凛子の様子を窺った。静かな部屋に凛子の寝息だけがすうすうと聞こえる。よく寝ているようで安心した。陽向は暗いリビングのソファに座る。部屋が薄暗く静かなせいか本日の疲労が思い出したように肩にどっとのしかかってくる。めまぐるしい一日だったなと思う。
中学の同級生と再会し、勤めた幼稚園を辞め、再会した同級生の家で病児の看病を手伝うなんて、昨日の自分が聞いたら嘘だと肩を竦めそうな展開だ。でもおかげで退職の切なさが薄らいでいる。
これから、本当にどうしよう。
陽向はソファの上で膝を抱えた。居住地域が決まっている訳ではないが、都心はαが多く、郊外に行けば行くほどβが増える。単純に土地価格の問題だ。
慣れた場所なので引っ越したくはないけれど転職先は郊外になるだろうと思う。そうなるといつかは引っ越しを考えなくてはならない。いやその前に就職先を見つけないと。だんだんと目蓋が重くなる。ここはうちじゃないし、いつ凛子が起きるか分からないから寝てる場合じゃない。分かってはいるけれど、一度目を閉じると開くのが億劫になる。ちょっとだけ、東園が来るまでちょっとだけ。物音がすれば気がつくだろうと思いながら陽向は眠りの波にのまれていった。
近くになにかいる気配を感じる。
なんなのだろう、頬に当たるのはぬるい風。あ、吐息かも、と思い目をこじ開けた。
目の前に黒目の大きな瞳と黒い髪。白いまろやかな肌。
「かおちゃん、ひなたん起きた」
上体を起こしながら目をこする。
ここは、ここって、あ、東園の家かとぼんやり思う。
「あ、あれ、凛子ちゃんもう起きたの、おはよう」
ラグの上に座ってこちらをじっと見ている凛子に陽向は苦笑した。
「今何時だろう。ああ、すっかり寝ちゃってた、まじかあ」
ようやく自分の役目を思いだし、膝に乗っていた毛布を掴んで顔を覆う。高いところからふっと吹き出す声がして毛布の隙間から睨めあげた。
「起こしてくれよもう」
「あんまり気持ちよさそうだったから。上に部屋を準備してるから使ってくれ」
「いや、もう寝ないよ。てかいま何時?」
「12時過ぎ。凛子はトイレに起きたんだよ。さあまた寝ような」
頭を軽く撫で、東園は凛子の手を引いて和室へ入っていった。
そろっと和室を覗くと凛子が布団に入るところだった。明かりを落とした部屋の真ん中に敷かれた布団。いつもここに寝てるのかな。こんなに大きい家だ、自分の部屋がありそうだけど。
看病しやすいようここに寝かされてるとしたらちょっとかわいそうだなと思いながら寝そべった凛子と目が合ったので「お休み」と声を掛ける。
「ひなたん」
凛子が布団から手を出したのでちらりと東園を見る。布団のそばにいた東園が小さくうなずいたので陽向はそっと凛子の布団の横、東園の布団を挟んで対面に座り小さな手を握った。とても熱い手だ、甲を撫でると凛子はすっと目を閉じた。
すうすうと寝息が聞こえ始めてしばらくすると東園が目配せしたので二人で和室をそろそろと出た。あれ、と思う。東園は風呂に入ったのに、近づくとあの匂いが漂う。人体から放たれた匂いだったのか、てっきり香水だと思っていた陽向は静かに驚く。
「凛子ちゃん、手がすごく熱かった。明日の朝、熱が下がらないようならまた病院行った方がいいかな。あ、明日は仕事なの?」
「休むよ、家で出来る事もあるから」
「そうか、良かった」
陽向はソファに座り伸びをした。そしてキッチンに立った東園に「僕がここにいるから、寝てきていいよ」と声を掛けた。
「ごめん、手伝いに来たのに寝ちゃって」
「寝たってほどじゃないよ」
くつくつ笑いながら東園はティーポットにお湯を注いでいる。
湯気がふわっと立って、それを見てはじめて陽向は自分の身体が冷えていることに気がついた。
「なに淹れてるの?」
「紅茶、かな。いや、ノンカフェイン、フレーバーティって書いてある」
ダイニングテーブルに着くと目の前に白磁のティーカップが置かれた。甘い匂いがふわりと漂う。蜂蜜レモンだ。
「ああ、いい匂い。ありがとう」
目の前の椅子に掛けた東園は微笑んで同じティーカップを口へ運んだ。
なんだろう、トレーナー上下にティーカップでも顔立ちが恐ろしいほど整っているせいで様になっている。力業だと思う。
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