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「さあ、東園は寝て。何かあったら知らせに行くから。ええと東園の部屋は二階だよね」 「そうだな。でも寝るのは交代しよう。三時間経ったら代わるから、それまで頼む」 「分かったよ。お休み」  二階に上がる東園を見送ったあと、陽向はそろっと和室を窺った。凛子の規則正しい寝息が聞こえる。産まれて半年で両親と離れたなんて本人もだけどお母さんが辛かったんじゃないかなと思う。  凛子を抱いている東園は育児に積極的な父親の見本のようだった。未婚で他人の子ども、を一時期だけかもしれないが育てようと決めたのも思い切った判断だと思うし、凛子の様子を見てシッターを雇ったり幼稚園を探したり、東園はちゃんと育児に取り組んでいるなと思う。ちょっと見直した。  陽向はソファに座るとスマホを取り出し求人サイトを検索し始めた。ゆっくり休んでいる暇はないなと陽向は自分に発破を掛ける。東園はちゃんとしている、自分もちゃんと、しよう。意気揚々とスマホの画面を見つめた。  以前見た求人以外に5件ほど増えていて、園の場所、勤務条件など検索する。  園の方針は気になるところだ。サイトを見ればおおよそのことは分かるのでそれを参考にさせてもらえばいいのだが、もう一つ、園の保護者については情報から推理するしかない。園の場所やα教育、等の記載があると気をつけようと思う。  4件検索したところで設定した目覚ましの電子音がなった。  あっという間に時間が過ぎていた。  東園は3時間経ったら起こしてと言っていたけれど、起こしに行くのも億劫だから寝かせておこうと思う。  陽向は立ち上がってふすまの隙間から凛子の様子を覗いた。  暑いのか布団を蹴り飛ばしている。そっと入って布団を掛けるとやはり暑いのか寝返りを打っている。もうちょっと寝ていて欲しいなと思いながらキッチンに移動する。  コーヒーが飲みたいと思うけれど、勝手に扱うのは気が引ける。好きに使っていいとは言われたけれど。外に買いに行くにも鍵がどこにあるか分からない。  まあいいかと思いつつ陽向はソファに舞い戻りまたスマホを起動した。  ふあっと欠伸が出る。瞑りそうになる目を強くこすっていると後ろから肩を叩かれ陽向は飛び跳ねた。息が詰まって心臓が苦しくなる。 「ひゃっ」 「ごめん、驚かせたな」  つい肩に置かれた手をたたき落とした。  昔から驚かされるのが苦手で、相手が東園と分かった今でもまだ鼓動が早い。深呼吸してようやく驚きが収まってくると今度は恥ずかしさに紅潮する。  園児は大抵、音もなく近づいてくることがないから、しばらくこの感覚を忘れていた。 「びっくりするだろ。もう」 「悪かった」  気まずさに目をそらした陽向の顔を、東園がのぞき込む。 「こっちを見て欲しい。三田村が嫌がることはもう二度としないから許してくれないか」  あんまり真剣な声で言うものだから、陽向はしぶしぶ視線を東園に戻した。声以上に真剣な面持ちの東園が思ったより近くてぎょっとする。  だんだんと慣れてきた東園の香りが近いせいか濃密に嗅ぎ取れる。  恐ろしく甘く、ねっとりとした重量感のある香りが鼻から身体中に染み込んでゆく。   思わず身体を引いた陽向を、東園は前のめりになって追いかけてくる。 「分かった。こっちこそごめん。許したからちょっと離れて」  東園の胸を押して陽向は立ち上がった。  カーテンの隙間から外を見る振りで東園から距離を取った。 「三田村、」 「あ、そういえばコーヒーが飲みたかったんだ。買ってきていい?」 「外に? いや今すぐ淹れるから待ってて」  一度外に出て外気を吸いたかったけれど思惑通りにはいかない。でも東園がキッチンに向かったので陽向は胸をなで下ろした。  体臭なのは間違いないが睡眠を取ったら匂いが濃くなる体質とか、かな、とぼんやり考える。陽向は息を深く吸い込み最後まで吐き出す。身体に入った東園の匂いを少しでも薄めるように。なんだろう、いい匂いかもと思いはじめたのに、濃いと身体が離れろと危険信号を流す。  キッチンの東園を眺める。よく「αはすぐに分かる」と言われる理由に匂いが上げられるが、それなのかなと思う。  陽向は鼻が良くないので今まで匂いでαが分かる、なんてことはなかった。さすが東都財閥の血縁者はαの中でも別格なのだろう。陽向は詳しくないがαの中にもランクがあるらしいから、鼻の悪い陽向が分かるほどの上位αということかもしれない。  流石だなと思いつつまあ、体臭ならしょうがないなと思う。自分はΩ臭がするのかな、と手首をくんくん嗅いでみたが全く分からなかった。 「コーヒー、ここ置くよ」 「ありがとう」  東園の淹れたコーヒーを飲みながら、陽向は欠伸をかみ殺しつつ最後の一件になった求人情報を保存して画面を消した。  スマホから顔を上げると東園がじっと陽向を眺めていた。 「なに?」 「いや、三田村は変わらないなと思って」 「見た目が? うーん、あんま嬉しくない。東園は変わった、というより年相応だね」  中学時代に思っていた27歳は、あの頃からほんの少ししか背的にも成長しなかった陽向より、上背もありたくましい体躯の東園のイメージだ。  くすりと笑った東園に「でも偉いと思うよ」と続けた。 「凛子ちゃん、東園にとっても懐いているように見える。それって東園がちゃんと凛子ちゃんに愛情を持って接してるからだよね。子育ては我が子でも大変って聞くから」  東園は目を瞬かせるとコーヒーカップに目を落とした。 「凛子は、姉の子なんだ」 「え、……そう、そうなんだ、お姉さんの。てか東園ってお姉さんいたんだ」  お姉さんはどうしたの、病気かな、それとも育児に疲れちゃったの、と思わず聞きそうになって飲み込む。  すごく仲がいいわけでもないのに家庭の事情を聞くのは失礼な気がするし、反対に現状を聞いて欲しい人もいるだろうとも思う。東園のことをよく知らないからいちいち迷ってしまう。

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