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 振り返るとすぐそこに東園がいて、陽向を強く抱き寄せた。ぎゃっと叫びそうになるのをすんでで堪える。  発情期の自分に手を出さなかったのは、東園の服用したというα性抑制剤のお陰もあるかもしれないが、そもそもいくらΩであっても陽向が抱きたい対象じゃなかったからだろうと思う。  だから気にならないかもしれないし、こんな状況だからかなとは思うけれど、いくら友人でもあんまり簡単にαがΩを抱きしめたらいけない気がする。現に陽向は東園の匂いに欲情してしまったようだし。  しかし怖い事があって気持ちが摩耗した今、この自分を包み込む大きな温かさと嗅ぎ慣れた匂いに安堵する。安堵するのに、やっぱりそわそわもする。  矛盾しているようだけど、東園の腕の中にいると成立するから不思議だ。 「傷があったな……痛かっただろ」  東園のか細い声が響く。  すごく痛かったけれど額を胸に押しつけたまま首を横に振った。 「うん、でも口の中切ったくらい。もしかしたら顔が腫れてくるのかな、明日とか」  身体を離した東園が陽向の顔を覗き込む。  指で口元の傷を触られ身体がびくりと揺れる。 「病院に行った方がいいんじゃないのか」 「大丈夫だよ、そういえば馨、どうしてここに?」  やっぱり顔を見ることは出来ない。自分の手首をさすりながら陽向はほんの少し後退した。  「もしかしたら病院帰りに寄ってるかもしれないと思って。鍵は預かっていたから」 「ああ、そうだったね。前に荷物持ってきて貰ったとき貸したっけ」  東園が警察と管理人、管理会社に連絡して、慌ただしく男を引き渡し事情聴取などを終えるともう七時近くになっていた。  男の名前は中原浩嗣。やはりというか以前の勤め先、高ノ宮幼稚園の園児中原蓮の父親だった。蓮はよく知っているが父親には会った覚えが全くなかった。ただ運動会やお遊戯会で、すれ違ったことはあるだろうと思う。     母親は園に陽向について苦情を申し出た保護者の中の一人だった。  考えたくないけれど、陽向のせいで家庭が崩壊するなんてことにならないだろうか。あのときはちゃんと抑制剤が効いていたのに、陽向の漏れ出たΩフェロモンが狂わせたのか。  Ωってなんでこの世にいるんだろうと思う。 「さあ、帰ろうか」  陽向の肩を叩く東園にここに泊まって明日帰る、と伝えると「こんな事があったところでは落ち着いて眠れないだろう」といやな顔をして返された。 「ここでいいよ、大丈夫」 「駄目だ、陽向顔色が悪い。一人には出来ない」   両肩に手を置いて顔を覗き込もうとする。  一人にして欲しいのだ、一人で考えたい。  発情期の思うようにならないもどかしさで疲れ切った上にこんなことがあって、陽向の胸が破裂しそうに痛む。  陽向は首を振って「もうやだ、Ωなんてみんな死ねばいいんだ」と震える声で吐き出した。泥々の気持ちを少しでも表に出したかった。陽向の身体だけでは消化できそうにないから。 「陽向」 「最悪だよ。会ったこともないのに誘惑したって言われた。Ωだから、Ωなせいで、嫌なことばっかり」  吐露してもまだ胸の苦しさは消えてくれそうになく、肩が震え、涙がじわっと涙腺を上がってくる。陽向は唇をかんでぐっと堪えた。 「陽向、今日のことは陽向がΩだから起きたわけじゃない。襲った男がただ身勝手な思いを陽向にぶつけただけだ。陽向はなにも悪くないし、Ω性に落ち度なんて全くない。すべてあの男が悪い。勘違いするなよ」  両手で陽向の顔を包み上向かせた東園は陽向と目を合わせ親指で陽向の頬を撫でた。    一つ一つの言葉を丁寧に、優しく、東園は陽向に囁き、その声は陽向の刺々しくなった気持ちを少し丸くした。  分かったか、と聞かれ小さく頷く。 「陽向、一つ聞きたいことがあったんだが、体調でなにか問題があったのか? 実家に帰る理由を知りたい」 「え? ああ、いや、……別に」 「別にって事無いだろう、戻ったら相談するって書いていたじゃないか」  実家に帰って今後の事を相談し、ある程度方向が決まってから東園に話す予定だった。  それを今聞かれ、答えの用意がない陽向は視線をさ迷わせる。  実家に帰れば陽向の幼少からのかかりつけ医もいるので、見合いじゃない対応も考えてくれるかもしれないとほんの少しだが期待している部分もある。  しかしここで出来ないことを地方で出来る訳ないと思う自分もまたいるのだけれど。  じっと真顔で覗きこまれ陽向は渋々話し始めた。 「もしかしたら、ううん、多分、次も抑制剤が効かないかしれないって、先生に言われたんだ。この前入院したときも、もし薬が効かない場合はパートナーを見つけた方がいいかもって聞いてて。うち、母親が前、いっぱいαの人との見合い話を持ってきていたから、もしかしたらその伝手がまだあるかもと思って。一回帰省して家族に相談するつもりなんだ。ま、かかりつけの先生にも見て貰って薬の相談してからだけど」 「陽向、それ、αとつがうって事だよな。前に付き合うのも結婚もしないって言ってたのに」 「つ、つがうっていうか、発情期、本当にきつくて、その、……自分もおかしくなっちゃうし、もう、あれは無理、耐えられない。薬が効かないならしょうが無いし、αの人に何人か会えばもしかしたら、その、僕でもいいって人がいるかもって、」 「αなら誰でもいいのか? さっきの奴だってαだっただろ、αだったらあれでもいいってことか?」  東園が肩をすくめる。もちろん誰でも言い訳じゃないけれど、αも総数が少ない性だ、えり好みは出来ないと分かっている。  答えに窮した陽向はそうじゃないけど、といいつつ東園から顔をそらす。  どうしたらいいのか自分でもよく分からない。  ただ、抑制剤なしで次の発情期を迎えるのはいま一番恐ろしいことだと感じている、それだけだ。 「それなら俺でもいいよな。そもそも陽向って、俺に発情したんだろう?」 「……え」  思わず目の前の顔を凝視する。  俺でもいいとは?  なにを言っているかちょっと分からない。    いや、言葉は理解できるけれど、東園の口から出てきたことに驚きを通り越して呆然としてしまう。だって東園は陽向が誘ったとき、断ったのだから。  クエスチョンマークしか浮かばないが、やっぱり他人、いや東園は誘われた本人だが、から見ても陽向は東園に発情したんだと理解されていたのが相当に気まずい、気まずすぎる。  え、だからその提案なの、と思う。  陽向が東園に発情したから?   しょうがないから相手してやる、的な? 「い、いや、遠慮するよ、大丈夫」 「は?」  ぐっと東園の顔に皺が寄る。 「だ、だって、イヤだったんでしょ? こないだは、その、断ったじゃない。大丈夫だよ、すぐじゃないけど探せば見つかるかもだし」 「嫌なわけ無いだろ。ただあの流れでやったら陽向があとで本当はやりたくなかったとか言いそうだなって思っただけで」 「そっ、……それは、」  確かにやらなくて良かったと思いました、とは言えずしどろもどろになる。  でも、本当のところは東園と発情期を一緒に過ごしていないから分からない。  あのときの自分はどうしても東園と一緒にいたかった。あのまま一緒にいて、この匂いに包まれていたなら、本当に後悔が生まれたのだろうか。 「あのときも言っただろ、陽向が冷静なときに俺でいいって言うなら、こちらは大歓迎だけど」 「そう、か」 「会って数日のαと発情期を過ごすなんて恐ろしくないのか? 俺ならまだ知ってる分安心だろ。しかも俺に発情したんだし」  あんまり発情した発情したと言わないで欲しい。じわじわと顔が熱くなってくる。  確かに、東園の匂いは魅力的だし、実家に帰ったからといってすぐ誰かが見つかる筈がない。  それに、苦しさから逃げることばかり考えていたので誰かと肌を合わせる想像をしてもなかった。陽向の知る中で一番他人が近づいたのはさっきのαだが、なんの参考にもならず、結局、陽向の想像では追い付かない。   恐ろしくないのかと聞かれて初めて怖いことかもしれないと思い至ったくらいだ。 次の発情期、また苦しむくらいなら東園もそう言ってくれているしいいのかも、陽向の中で誰かが囁く。  しかし一方で東園を陽向の都合に巻き込んで良い訳がないとも思う。  いろんな事実と予測と事情が頭の中でぐるぐる回って収拾がつかない。  おずおずと見上げた東園は小首を傾げ微笑みを浮かべて陽向の返事を待っている。  そういえば、東園は運命のつがいがいて、片思いしていると言っていた。好きな相手がいるのに陽向にそんな提案をする東園の心理を考える。  陽向の聞いた感触では上手くはいってなさそうだ。普段の生活を見る限り、会っている様子も無いように思う。  まさか、欲求不満? それともΩ相手の練習とかかな。  東園なら相手をして欲しい人がたくさんいそうだけど、東園にも利があるならいいのだろうか。  陽向はどうしたらいいのか結論を出せないままで、部屋は壁掛け時計の秒針がたてる音だけ小さく響く。  黙りこむ陽向を東園は急かすことなくずっと待っていた。大人になって知った東園は優しい人間で、だから他人の面倒な事情に手を差し伸べられるのかなと思う。  目を上げると東園はただじっと陽向を見ていた。東園は確実に、陽向の救世主になれる。胸の天秤が揺れた気がした。  迷惑を掛けてごめんなさいと胸の中で謝りながら陽向は「よろしくお願いします」と囁いて俯いた。

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